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三   子供の記憶は青魚


 日が暮れてからオルカを負って集会所を出たフージャは、家で家族を待っていた母にも迷子預かりの説明をして、風呂に入り日々の記録をつけたところで睡魔に負けた。本当であれば一晩酒を酌み交わし様々な話をして、男衆たちと分け隔てなく付き合うのが次期統領の役目でもあったのだが――とても、わざわざ戻ってそうしようと思える具合ではなかった。実際の疲労に気疲れが重なって、彼はそれはもう、参っていたのだ。
 それでも、フージャは朝が来て適当な時間になると目を覚まして、身を起こした。十日ぶりに寝起きした部屋はきれいに片づけられていて、昼でも暗い、どうしても空気が淀みがちな船室とは違って気持ちの良い空気が流れていた。
 着替えきっちりと髪を結わえて軋む階段を降りた彼は、視界の低いところに白い姿を見つけて驚いた。服は着替えさせられてエファヴィのお下がりになっているが、白い、真綿か雲のような柔らかな髪は間違えようも無くオルカのものだった。
「あっ、おはよ!」
「……おはよう。早いな」
 生成りの袖をぱたぱたと揺らしフージャに駆け寄るオルカは、パラファトイの慣習に従って裸足になっていた。薄青の帯には花模様が散っていて、年に見合った、余分の多い結び方をされている。動く度にひらと可憐に動く、良家の子女の装いだ。首飾りだけが元のまま、細い首から下がっている。
「目ー覚めてねー、知らないとこだから、びっくりしちゃった。お姉さんが服いーっぱいくれたんだよ。きれいですてきでね、それでね、あと、朝ごはんもうすぐだって」
 思いついただけ喋る彼女にうんうんと頷きながら、フージャは居間を目指した。オルカはその後ろを付いて歩く。広い家はそう簡単に間取りを覚えられるものでなく、遊んで歩きまわるには良いが、どこかへ、と思うと上手く行かないものだった。
 居間では既に、母が朝食の粥を椀に移しているところだった。フージャは彼女にも挨拶して、それから食事を始める。オルカもそれに倣った。熱いから気をつけて、と普段はわざわざ言わないことをフージャたちの母――統領の妻ツァマルが言ったのは、無論、オルカの為であったに違いない。
 彼女は突然の来客、幼気な少女にもすこぶる好意的だった。元より子供好きで、世話好きの女である。常の口数の少なさを思わせぬほどよく話してやり、あれこれ世話を焼いてはオルカを笑わせた。
「父さんはまだ集会所よ。昼まで戻らないんじゃないかしら。……貴方は?」
「今日は家に居るよ、皆休みだから。姉さんは神殿?」
 おかわりを手渡しながら言うツァマルに、フージャは家の中の気配を探りつつ言った。姉が今食事の席に居ないのは、けして朝寝坊したためではないだろうと。エファヴィは統領の娘であるから、神事を行う巫女の一人でもあった。朝早くからその仕事に、海岸にほど近いところにある神殿に赴くことも少なくはない。
「ええ、後でお散歩にでも行ってくればいいわ、その子もつれて」
 ツァマルは頷き、目元の皺を深めるように笑ってオルカを見遣る。
「――お姉さんに会いに行くの?」
「後で行くかも」
 フージャも懸命に散蓮華を口に入れているオルカを眺めながら二杯目の粥を掻きこみ、ごちそうさまと告げて立ち上がった。まだオルカが食べているうちに、自ら茶を一杯茶碗に注いで飲み、父の部屋に入って薄い木の板を繋いだ折本状の記録を一つ持ちだしてくる。
「オルカ、おいで」
 それで片付けを始めた母から離れて座り、ようやく一杯食べ終えて、お茶を貰っていたオルカを呼んだ。ぱたぱたと軽い足音を立ててフージャに寄ったオルカは、床に広げられた本を見て目を瞬かせる。
「なにそれー?」
 一直線に並ぶ板の白く削られた表面に描かれているのは、年月日と何かの名前と、紋様だった。簡略化された鳥や花、山や波。フージャはそうした物がいくつか見えるように記録を広げたままにして、オルカを横に座らせる。
「帆の印だよ」
「ほっ? ……あっ、知ってる! 船についてるやつでしょ!」
「そう。オルカがどれに乗ってきたか、分からないかと思って」
 目を輝かせて自慢げに言ったオルカに笑い、板を一枚撫でる。一番端にあったそれは日付がもっとも新しく去年の春となっていて、木の板自体も新しく見える。描かれる紋様は丘と果樹。フージャの持ち船、ベサーブーキの帆印だった。
 様々にある紋様を前のめりになって興味深げに眺めたオルカは、あるところであれっと声を上げてフージャを見た。
「ねー、オルカ見たとき、ほ、無かったよー」
「え?」
 何か手がかりかと身構えたフージャは、予期していなかった言葉に目を丸くする。
「……無かったよ?」
 オルカはまたちろりと帆印の記録を見て考える風だったが、結局は同じ言葉を繰り返してフージャを見遣った。首を傾げると白い髪がふんわりと揺れる。着替える時にエファヴィが洗ってやって櫛を通したのだとは、フージャは知らなかったが。
 忘れた、覚えていないと言うわけでもなく、帆が無い? ――と、フージャが思考に落ちようとしたとき、廊下からひょっこりと巨人が顔を出した。
「畳んでいたのだ」
 突然背にかけられた声に跳ね上がったフージャとオルカは、慌てて振り返る先で悪戯が成功した面持ちのベサルバトを見る。フージャは深く溜息を吐いたが、オルカはまだ慌てていて、手を意味も無く動かした後、
「おはよう!」
 はっと、思い出したように大声で挨拶した。ベサルバトもフージャも、誰よりも早く来客に気づいて客用の茶碗を持ちだしてきたツァマルも思わず笑ってしまった。オルカも、何故皆が笑ったのかは分からなかったが、にっと白い歯を見せて笑った。
「ああ、おはよう。昨夜は集会所で寝たからな。もう起きたろうと思って、様子を見に来た。――邪魔を致します」
「いいえ、さ、お茶をどうぞ」
「ありがとうございます」
 朗らかに告げるベサルバトに人の手では小さなどんぶりのようにも見える茶碗を差し出し、ごゆっくり、と告げてツァマルは居間から出て行った。朝から夕方まで、女の仕事は多くある。子供も一人増えたことであるし、彼女はあまりゆっくり茶を飲んでいるわけにはいかなかった。
「それでフージャ、聞いていたか。帆は、畳んでいたのではないか」
 さて、と鱗模様の彫物が洒落た茶碗から熱い茶を啜ったベサルバトが繰り返す。フージャは少し沈黙して、ああ、と花が萎れるような調子で落胆した。
 この時期、大陸は何処も風が強く船が煽られやすいので、港に着けばすぐに帆を畳む船が多い。畳んでしまえば帆印は見えず――帆に張る布の色自体はいずれもこの地の物であると示す為に、国を示す紋と同じ青色に染められている。印はその中に、白く抜くものなのだ。それさえ見えなければどの船の帆も大差はない。
 手掛かりにはならない、と理解して、フージャは今度は安堵ではなく、落胆に息を吐いた。
「……あっでもね、あそこでは見たよっ。四角がいっぱいあるやつとねー、えっと、」
 その落ち込みを見て取って、オルカは見当違いに言葉を重ねた。折本の記録を探しながらサクランカの港で見た帆印を教える様に、フージャは笑って肩を竦めた。
「それはバンヤクペラク」
 銀の群号、と告げたのは、離れた海で漁をする為の、大型漁業船の一つだ。四角――やや潰れた菱形は魚をもっとも簡略化した図形で、バンヤクペラクの帆印には十三個、つまり十三匹分が並べられている。その魚の集いこそが銀の群れであり、豊漁を願った印だった。
 これ、と示す前に答えたフージャに、オルカの金の瞳は銀の群を迎えたように輝きはじめる。遊びを発見した子供の眼差しだった。
「じゃあなんか、ひゅんひゅんーってしたのがあるやつは?」
「どんなの?」
「こんなのー。ひゅんひゅんー、でしょ? 山?」
 弾んだ声で言いながら、床を撫でる指は二つ山を作るように跳ねた。それを見ただけで、フージャは納得した顔になった。その後ろで茶を啜り続けているベサルバトも、また。
「それが三つあったなら、ティガブールだな。それは鳥だよ。鴎だ」
 オルカが描いたのは、鳥が羽を広げて飛ぶ姿を象ったものだ。それが三羽連なったのがティガブールの帆印。フージャが事も無げに答える船の名は、オルカにとっては呪文のようで魅力的だった。
「鳥? ……鳥っぽくないよ。鳥はもっと、こうだもん」
「海で鴎を見なかったか?」
「かもめってどれー? オルカ知らない」
「じゃあ後で港に連れていってやるよ」
 偶にはそうして反論などもしたが、オルカは終始にこにこして機嫌がよかった。誰も、言われなければ迷子で保護されてきた子供だとは思わないだろう。
 昼までは帆印当てをしたり絵を描いたり、男二人が女児に付き合うことで過ぎていった。昼にはツァマルが蒸しパンを拵えて、いつもより大きな茶瓶を持って戻って来た。茶瓶の中にたっぷりと用意された茶は、朝に出したものとは違う、発酵が浅く、色も薄い白茶。オルカが朝の茶を残した為に気を利かせて違うものを持ってきたのだ。
 異国の客人をもてなすことも多いツァマルの見立て通り、今度はオルカもお代わりをするほど飲んだ。パンも手づかみで食べられる上、甘く柔らかく、子供の好く菓子のような物だったので、大きな切れを口に押し込むようにして頬張っていた。食器に苦戦していた朝よりもよく食べ苦しくなるほどに。
 昼の茶を終わらせて少し経ったところで、フージャはオルカとベサルバトを連れて外へ出た。朝食の席で話したように、エファヴィのところに行こうというのではない。帆印が駄目ならと、船の実物を見に出たのだった。
 家から続くなだらかな坂を少しだけ登るとすぐ海が見える。後はずっと下り道で大した距離でもなかったが、オルカを連れていた分、いつもよりも随分のんびりとした道となった。道中も、港に着いてからも、異国から来た幼い少女にとっては珍しい物ばかりのようで、彼女は何か見つけては「あれは何?」と口癖のように言うのだった。

 向かった先の港でも、オルカの素性について大きな進歩はなかった。
 大きい船、と言っていたオルカだったが、大抵の船は彼女にとって大きい。どれを見ても帆柱は見上げるほどで、甲板は駆け回るだけの広さがある。小さい物と言えば、漁業船ぐらいである。北東のエルテノーデンに食料を運ぶ商船ベルシナーギン、南東のジノブットから多量の宝飾品を持ち帰る商船ティガブール、三国を繋ぎ人の行き来を助ける客船ペンブンガーンなど、異国の港を訪れたことのある大半が港に揃っていたが、オルカは首を傾げるばかりだった。
 記憶は青魚の如く。オルカの記憶は早々に使い物にならなくなってしまった。何を見ても「そうだったような」になってしまったところで、フージャはオルカの足跡を辿ることを諦めた。粘り強いと評判の彼にしては早い決断ではあったが――急かしたところで無駄であるから、本人が言いだすまで待つことにしただけだった。
 あちこちを適当に挨拶しながら歩いているうちに日が暮れて、三人は揃ってサガイの家へと戻った。家にはエファヴィが既に帰ってきていて、ツァマルと並んで夕餉の支度をしていた。少し後にはジヒタムもタナマンとベサテルズを伴って戻って来た。集会所でのものよりも随分小ぢんまりとした酒宴が開かれて、夜は更けていった。
 誰もがオルカと色々な話をしてオルカから元いた場所を聞き出そうとしたが、そちらも失敗に終わった。オルカ自身、自分が暮らして居たのがどこなのか、なんと言う名前なのか、本当に聞いたことがないのだという。ただいつもは大体部屋の中に居て、お兄ちゃんと呼ぶ男と遊んだりして暮らして居たという。近頃はあまり遊んでくれなくなったので、つまらなくなって一人で探検していたところにパラファトイの者と船を見つけて潜入してみた、というのが、事の顛末のようだった。
 後日、船の運行予定に合わせてエルテノーデンやジノブットに渡った人々は、ジヒタムの指示通り行方不明の子供が居ないかをそれぞれの役所に確かめに行ったが、結局そのような届け出も見つからず、有耶無耶のままに日々は過ぎた。オルカはすっかりパラファトイに馴染み、居るのが当たり前の存在になっていった。
 初めは手のかかる、と思っていたフージャも段々と慣れて、親戚の子供たちにするのと同じように接し、世話を焼くようになった。事あるごとに母や叔父、そして姉が「お前がこのぐらいの頃は」と言うのは頂けなかったが。
 オルカは誰よりも、フージャに一番懐いた。兄が居たからじゃないかしら、とエファヴィは言ったが、当のオルカに言わせれば「お兄ちゃんはもっと大人だよ!」とのことだった。
 フージャは統領の息子、ベサーブーキの船長としての務めも多くあり常に家に居るわけではなかったが、家に帰ってくればオルカは子犬のように付いて回った。
 そして今までほとんど年下の子が近くに居たことのないフージャは、満更でもない顔で彼女の相手をするのだった。



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