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六   〈雨〉の訪い


 人々が楽しく、精一杯に日々を生きるその下で、白い呪いはその手を広げていた。
 統領ジヒタムとベサテルズによって〈冬〉の訪れが宣言されてから早半月、〈雪〉は徐々にパラファトイの地を蝕んでいた。土は急激に生気を欠き、草木は色を変えて萎れ始めている。虫の声が減り、原に出ても動物の影を見ることがなくなった。人々が咳をしたり調子を悪そうにしているのは、〈雪〉のせいかもしれないし、季節が変わって少し涼しくなったからというだけかもしれなかった。
 この時期はまだ一面に作物が植わっているはずの耕地は、半分ほどが掘り返されて土の色ばかりが見えるようになっていた。収穫には早い作物も、採れると見れば〈雪〉害を避けるために収穫され、保存食と種に回された。まだ〈冬〉が始まったばかりであるために希望を捨てずに残された作物もあるにはあったが――掘り返した土が濁り始めれば、すぐにすべて同じ道を辿るだろう。広がり方の具合を見ればそれも遠くないことだろうと、皆が予感していた。
「花、枯れちゃった」
 庭に出たオルカは、枯れた紫陽花の花の塊を一つ手に取った。少し指でいじるだけでぱらぱらと崩れ落ちる花の鞠を見てしょんぼりと項垂れる。そうした物や、どことなく暗い顔の人々ばかりを見ているので、彼女もまたいくらか気持ちが暗い。腰に結わえられた黄色い花染めの帯はツァマルがオルカのために新しく仕立ててやったものだが、それも元気なく垂れたままだった。あまり駆けまわると土埃が出ると、必要以上に気にかける者も少なくはない。
「オルカ、あまり外に出てはいけない」
「はぁい」
 呼ぶジヒタムへの返事も聞き分けが良いが、元気がない。すっかり落ち込んだような様子でとぼとぼと家に引き返すのを見届け、ジヒタムは息を吐き、眉を寄せた。
 オルカが触れていた花の根を手にした杖で除けて見れば、白い斑模様が土に浮いているのが見える。彼は舌打ち、乱暴な手つきで花を元に戻した。
「ここまで雪が来ているのか?」
 〈雪〉の侵蝕はどうやら彼らが思っている以上、巨人の長の立てた予測よりもさらに早いようだった。ジヒタムはぞっとした。八年前、長引く〈冬〉のために作物が育たず、死んだ魚や貝が浜に打ち上げられ、元気な魚たちも遠い海に逃げたことはまだありありと思い出せた。食糧が満足に得られなければ貿易にも影響が出る。パラファトイが貿易で得るのは金属や質の良い木材と言った、衣食よりは住に関わる面で、すぐに消耗される物でもないので後回しにできるとはいえ。
 ――もしもこの状況が、今だけでなかったら。来年も続くようなことがあれば? その想像は、けして考えすぎと言えるものではなかった。
 誰もがそれを考えている為に、催された集会は議論と言うよりも確認になった。パラファトイは今一度、角の地に雨の嘆願をする為に船を出すことに決めた。出る船は当然、最も新しく立派な造りである、フージャの持ち船ベサーブーキだ。
 出発を翌日と決めたフージャは部屋で細々としたものの支度をしていた。そうなるだろう、と予想していたことではあったので荷造りはおよそ済んでいるが、出航まで時間が残っているとどうも落ち着かないのだ。
 床に座り、用意した砥石を真正面に据え、普段からよく使う小刀を鞘から取り出して息を吹きかける。砥石の上に滑らせて丁寧に砥ぐ。青い目はじいっと愛用品の手入れをする己の指先を眺めていたが――三度も手を動かしたところで聞こえた、階段を昇る足音に顔を上げた。
 やってきたオルカは、フージャが座っているのを見れば静かに近寄って、ちょこんと、少し離れたところに膝をつく。
「……角様のところに行くのよね?」
「うん。〈雨〉のお願いをするんだ。〈雪〉が来てるから」
 たっぷり黙ってからの問いかけに、フージャはなんてことはないように頷いて、笑ってみせた。オルカはまた黙り込んだ。
「どうかした?」
 いつまで経ってもそうなので、フージャは小刀を手放して、オルカのほうへと近づいた。きっと不安なのだろう、と思う。〈雪〉が来れば誰だってそうなのだ。いくつも年を重ねどっしりと構えた翁でさえ慄き、何も分からない赤子でさえ感じ取って泣き出すことがある。それが〈冬〉なのだ。慣れたとはいえ異国の地、実の親もなしに、まだ十一の少女にはどれだけ心細いか。
 考えて小さな頭を撫でにきた手に、オルカは困ったような顔をした。
「……いつ帰ってくる?」
「すぐだよ」
「すぐっていつ?」
 あまりに子供らしい問いかけが返ってきて、フージャは笑ってしまう。彼は誤魔化そうとはしなかった。間を置いて、行程と、滞在日数を頭で考える。
 ざっと、と答えを出す前に、その思考は破られてしまったが。
「サガイさま、統領さまぁ!」
 女の大声が聞こえて、二人は揃って窓のほうを見遣った。すぐに立ち上がったフージャが覗きこむと、巫女の紅い服を着た者が家の敷地に駆け込んでくるのが見えた。白髪交じりのその姿、エファヴィではない――と思ったが、その後ろをエファヴィが追いかけてくる。「父さま!」と呼ばう知った声にオルカも立ち上がり、階段へと駆けていった。フージャはその後ろを追う。
「統領さま、光雲が見えました!」
 座したままの統領の前に、息せき切った巫女が膝をつき、叫ぶ。ジヒタムが目を剥いた。
「間違いございませぬ! 角の御方の雲でございます!」
 巫女が続けて言い放ち、大きく咳き込んだ。どちらも凄まじい顔つきとなっていた。気圧され廊下で立ち止まったオルカの後ろで、フージャも目を見開いている。そして彼はすぐさま、外へと駆けだした。
 ジヒタムは床にどんと手をついて跳ね毬のような勢いで立ち上がったが、鼻の穴を大きくして息を吸い、開いていた手をぐうっときつく握りこぶしにしてから、ゆっくりと足を前に出した。大股で堂々と床を踏みしめ、草鞋を履いて外に出る。そして空を見上げた。よく晴れ、ただ薄く青いばかりであると思われていた空を。フージャも、オルカも、報せに来た二人もまた外に出て、同じように空を見た。
 空には、渦巻く雲がある。
 風の向きも気にせずに、何かを目指して動く筋雲が集って渦を成している。雲は――淡く、仄かに、光を含んでいた。繻子の如く艶やかにうねり、彼らの立つ大地を覆うように。
 目を見開き天を仰ぐフージャの鼻先に水が触れた。ほんの一滴、僅かなものだった。それでも彼は、それが温かいとよく分かった。ああ、と声が漏れる。
 額に、頬に、肩に、持ち上げられた掌に。水滴が触れて玉となる。そのすべてが不思議に温かく――彼らが見上げた先の、光る純白の雲から生まれているのだ。
「〈雨〉だ……」
 ただの雨ではなかった。本来であればこの時期に降るものではなかった。人々は皆呆然と天を仰ぎ、同じ言葉を呟いた。
 たっ。音を立て、銀の雫は降る。地を濡らす。白く罅割れた大地を打つ。枯れた花を打つ。濁った土が濯がれる。空気が澄んだのを誰もが感じた。
「角様だぁ!」
 オルカが輝かんばかりの笑顔で歓声を上げた。額に触れた雫に目を閉じて腕を広げると、水滴はいくつもその上で跳ねた。小さな手が広げられ、隣に立った少年の手を取る。
「ありゃあ、角の主様の雲か!」
「〈雨〉なの?」
 その言葉は、パラファトイの各地で波のように広がっていった。わあっと湧く喜びの声は祭の騒ぎのように、家に引きこもっていた人々にも聞こえるほどに。
「フージャ、角様来たよ! 雨降ったね! よかったね!」
 その中で手を揺らし、帯を揺らしてオルカが言う。ああ、とフージャが答える。輝く雨の中笑う白い少女を映して、彼の薄青の目もまた輝いていた。彼には少女が、雨の喜びそのもののように思えた。
「御方が、御慈悲を下さったのか……?」
 この上なく優しい雫を体に受け止め続けていたジヒタムは呆然と呟いた。使いも出していないのに、角の主が慈悲を見せた。それは異例のことだ。何か異変が起こっていることは間違いがない。それでも。
 それでも、彼もやがて笑い始めた。皆が笑っていた。〈雪〉は〈雨〉によって洗い流され、パラファトイの〈冬〉は眠るのだ。これほど嬉しいこともない。
 甲高い子供の歓声が三度弾ける。見れば、フージャがオルカを抱え上げて踊っていた。何の舞の型でもない、ただ喜びを体の中に押し込めていられなくなった者の、感情の発露だ。
「フージャ、落ち着かんか!」
 ジヒタムは笑いながら世継ぎを叱りつけた。あまり威厳のない声だったのは、言うまでもない。
 その夜、二日続きの緊急集会が開かれた。濡れても体を冷やさない雨に打たれながら集会所に集まった人々の顔はいずれも明るく、うきうきとしていた。何の為に雨が降ったのか、理由を解明できない話し合いはやがて宴に変わり、角の主を讃える歌と舞は、夜が更けても続いた。



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