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五   一家団欒の日


 サガイの家の周囲で遊び、港で船乗りたちの迷惑にならないように遊び、果樹園で町を見下ろしたまに果物を貰って齧る。家では札遊びやツァマルとのおしゃべり。パラファトイに来てから二月経ったオルカの生活は、そんなもので構成されていた。
 何もかもが目新しい時期は終わったが、季節が移り景色が変わったこともあり、まだ彼女も此処での生活に飽きてはいないようだった。
 飽きてはいなかったのだが――
「オルカ、なんだかつまらなそうね?」
 干物作りの為に台所で魚を開くエファヴィは、庭の隅でぼんやり虫を見つめているオルカを見て言った。ツァマルもまた彼女の横で、魚から内臓を取り除き樽に落としている。
「フージャが漁に出ちゃったから。……皆いつでも遊んでくれるわけじゃないし、同じ年頃の子はちょっと、遠巻きだしね」
 フージャが居らず――居たとしても少女と遊ぶような振る舞いはできない統領だが――ジヒタムも居らず。ベサルバトも来ない。それで家に残った女二人が煮炊きに掃除にと仕事をし始めると、オルカは邪魔にならないように一人どこかで遊んでいるしかない。
 オルカは一人で過ごすのが上手い子供ではあったが、それにも限界はある。特に最近は〈雪〉が着いたという巨人族からの知らせを受け、パラファトイの人々は〈冬〉支度を始めていて手が空かない。男たちはできる限り食料や生活品の類を増やすために仕事を増やしているし、女たちは保存食作りに追われている。暇があれば魚介を捌き、野菜の皮を向き、干したり塩漬けにしたり。その間を縫って普段の家事をする。〈冬〉が来ると忙しく、もっと進むと〈雪〉が入り込む気がすると掃除の回数も増え、あまり子供に構っている暇はなくなるというのが実情だった。
 そういう時は大抵兄姉やいとこたちが年下の子供の相手をするものだが、生憎とフージャもエファヴィもそうした子供と大人の過渡期などではなく、立派に仕事を持った大人の一員だ。
「可哀そうだけど、あの年ならまあ、放っておいても平気だし……」
 身は干物に内臓は塩漬けにと余すことなく使う予定の魚をもう一尾笊から取り上げ、ツァマルは困ったようにぼやく。そうしてその銀の皮膚に刃物を添えたところで、はたとして目を瞬いた。
「あら、お母さんいいこと思いついたわ。そうよ、もうお姉さんの年だもの。十一歳ならおチビちゃんでもないわ。――オルカ、ちょっとこっちにいらっしゃいな」
 急にうきうきと口角を上げた彼女は、魚も刃物も置いて立ち上がる。呼ばれたオルカも顔を上げ、すぐに立ち上がって駆けてくる。
「エファ、あとはやっておいてちょうだい」
「えっ」
 その間にエファヴィに、残りの魚の分解と塩漬けを任せて。なあに! と元気に問う少女ににこにことして生臭い手を拭う。
「あなた、ただのお客様は今日でおしまいよ。ちょっとお手伝いしてくれる?」
「おてつだい?」
 ツァマルの言葉を繰り返す顔に不安や不満はない。むしろ目はきらきらと、パラファトイに来たばかりの頃のように強い好奇心を見せていた。
「難しいことじゃないわ。一緒にお料理しましょう」
「する!」
「お客さんが来るからね、おやつに蒸しパンを作るわよ。卵を割ってみましょうか」
 七日に一度、昼下がりには統領の家へと世間話をしに、近場の女たちがやってくる。干した果物などの茶請けもあるにはあったが、これからそうしたものに頼る生活が続くと思えばまだ平穏な今時期は新鮮さが感じられて、柔らかいものが好ましい。
 ――というのは半ば建前で、オルカに何かをやらせてあげようという考えが、子供好きの女の中では先にある。魚を捌く作業もパラファトイでは十歳になる前から練習させるものだが、オルカは一応迷子で、刃物を持たせるには不安があった。その点蒸しパンの手伝いなら、怪我をさせる心配はない。
 面倒なほうを任せて、などといくらか文句を言いながら魚を開くエファヴィを横に、ツァマルとオルカはよく手を洗い、オルカの好物でもある蒸しパンを作った。初心者どころか料理がまるきり初体験の少女が割った卵は案の定潰れたが、溶くのだから殻を除いてしまえば問題にはならなかった。
 卵を溶き、粉や砂糖、油を加えて混ぜるのは二人の共同作業。蒸し器に入れて火にかけるのはツァマルがやった。それだけのことでも、オルカの胸は達成感に満ちて暖かくなった。蒸しあがるのを待つ頃にはエファヴィも魚を始末して、わくわくと蒸し器を眺める、過去の己のような少女を横から眺めていた。
 ツァマルが監督したので当然と言えば同然だったが、オルカの作ったおやつは上々の出来だった。集まってきた奥様方にも好評で、オルカはたっぷりと褒められてご満悦。気が利く彼女らの進めに従い、夜には帰ってくるだろうフージャとジヒタムの分として一切れずつ取り分けた以外、ふかふかの蒸しパンはすっかりなくなってしまった。
 その日、フージャは父よりも先に、予定よりも早く家に戻って来た。日が海に沈みきる前のことだった。日が暮れるのを今か今かと待っていたオルカはぱっと顔を輝かせて、座ったまま落ち着かずに向かいで茶を飲んでいるエファヴィを見る。エファヴィも合わせてにやにやとした。
「おかえりー!」
「おかえり。早かったわね」
「ただいま――海が時化そうだから早めに切り上げてきた」
 元気がよすぎる、有体に言えば騒々しい挨拶にも慣れたもの。フージャは頭に巻いた布を解きながら答えて、茶瓶を示し姉に茶の催促をする。
「〈冬〉が来ると、海もどうもね……ああ、おやつあるわ」
「あのね、今日の、オルカが作ったの!」
 エファヴィが戸棚から茶碗を取り出しながら言うと、そわそわしていたオルカが待ちきれないとばかりに声を上げる。立ち上がりそうなほどの勢いとその内容に、フージャは目を丸くして布を畳んでいた手を止めた。
 茶碗と共に卓に載る皿の上の蒸しパンを見て、オルカを見て、姉を見て。
「オルカにやらせたの?」
 そういうことらしいと合点し、確認に上げる声はやや上擦った。まさか、という声だった。
「ちょっとやっただけよ。危ないことは何にもさせてないわ。私も母さんも見てたんだから」
「だっ……オルカは客なんだよ?」
「ずっと他人、預かりっ子じゃ居づらいでしょう」
 問題ないだろうと告げるエファヴィにツァマルが加勢する。フージャは突っ立ったまま、少し硬くなっている蒸しパンを見下ろし、今一度とオルカのほうも見やった。
 手は卓の下になっているが、誰も何も言わないということは傷の類はないのだろう。とは、考えはするが。
「どこかのお嬢様かもしれないのに?」
「オルカ楽しかったよ! またやる!」
 フージャはまた大きな声を出したが、当のオルカはそれよりも元気に感想を述べる。やりたい、ではなくやると言い切り、初めての成果である蒸しパンの載った平皿をフージャのほうへと押しやる。
「……怪我だけは勘弁してくれよ。俺の客ってことになってるんだし」
 食べて、食べて、おいしい? と急かす少女の表情の、眩しさと言ったら。結局フージャも折れるしかなかった。
「それは、オルカも怪我はいやよねぇ?」
「うん、痛いのは嫌。だから気をつけるよー。――ね、おいしい?」
「うまいよ。初めてなのによくできてる」
「よかったわねぇ」
 疲れを癒す甘い菓子を齧りながら言う彼の前で、エファヴィとツァマルがオルカを挟んで笑っている。その様は既に本当の家族のようだった。自分は彼女らを養って守っていかねばならないのだなと、フージャは不意に思う。
 オルカを通じて男としての自覚が芽生えるとは、彼は予想もしていなかった。これがジヒタムに知られれば、「まだ青い」とぴしゃりと言われてしまうには違いなかったが。
 フージャはそれも想像し、口元を緩めた。悪くない気分だった。
「じゃあ、これからお夕飯の支度よ。胡麻を擂ってもらおうかしら」
「やるー!」
 誰もが笑う和やかな空間に、今度はジヒタムがタナマンを連れて戻ってくる。彼らも虫押さえにと蒸しパンを一口ずつ食べてその作り手を褒めてやったので、オルカは夕食に使う胡麻を擂るにも懸命になった。腕がつりそうな様子だったのでエファヴィが途中で手を貸しはしたが、他には盛り付けなども手伝って、卓について待つだけだったそれまでを思えばかなりの量の仕事をこなした。
 それからというもの、オルカは普通の子供に比べては過保護な範囲で、ツァマルやエファヴィの家事を手伝うようになった。もちろん、やればやるだけ上達する。子供ながらの吸収力で色々と物事を覚えていく彼女を、周りも一層微笑ましく思いながら見守った。
 料理、掃除、洗濯。そうして、オルカの生活は更に充実していったのだった。



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