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九  その日海は赤々と


 四日後、海はようやく落ち着きを見せ始め、ジノブットを経由する船も出航可能と見なされた。フージャはオルカを迎えに行くために神殿へと向かった。
 そんな折、エルテノーデンの船団が港に向かっているとの一報を入れたのは、離れた海を巡視していた小舟の見張りたちだった。ジヒタムとベサテルズはすぐさますべての船に戦の合図を出し、自らも武器を手に港の見張り台へと向かった。海上での指揮はタナマンに一任された。
 今回は、前回とは違いパラファトイにも戦争の支度がある。海獣狩りの為の頑丈な船ペダンドアを先頭に、メネラーケンバル、インダワンと大型船が続き、更にベルシナーギンに大将船のベサーカマーで、総勢は五隻となる。船員の中には巨人族の姿もあり、彼らは投石器の代わりとして仕事をする手筈となっていた。
 多くの船乗りと巫女たちが読んだ通り、風は西から吹き、パラファトイに味方していた。戦艦となった五隻は十字に陣を成し、エルテノーデンを迎えうつべき北の海域へと進む。船員の誰の顔にも焦りや恐れはなく、ただいくらかの緊張だけが薄い膜のように彼らを覆っている。潮風が絶え間なく彼らの髪や服を揺らしていた。
「見えた!」
 先陣を切るペダンドアの見張りが叫んだ。
 彼らの進む先に、相対するようにしてエルテノーデンの船の新緑色の帆が見える。数は四と、以前の倍。一隻あたりに乗っている人数ももしかすれば前回を上回っているかもしれないが、誰もがそれは些細なことだと考えていた。人を増やしただけで覆るような戦いではないと。
 パラファトイの船もエルテノーデンの船も進んでいる。速度はパラファトイのほうが上回っており――直に衝突するに違いなかった。
 一団の中央、大将船ベサーカマーの甲板で敵影の報告に眉を寄せたタナマンは、手を軽くひらと動かして促した。
「予定通り囲むぞ。ペダンドアは攻撃用意。メネラーケンバルは東側からだ」
 報せ太鼓はドォン、ドォン、と間を開けて鳴らされる。船の番号、次いで、指示。左右と後方に陣取っていたベルシナーギンとインダワン、メネラーケンバルが続けて舵を切る。
 直進するペダンドアでは、巨人たちが既に投石の用意をしていた。合図があればいつでもエルテノーデンの船に穴を空けてやれるという気持ちでいた。それ自体は簡単なことで、気をつけなければならないのはその後の白兵戦であると、誰もが思っていた。
 ぽっ。
 耳慣れない音を聞き、石を握っていた巨人の一人が顔を上げた。ちかりとなにかが瞬いたような気がする。波間ではないところで。波とは違う色で。海鳥でもない。しかし、何処で――一体何が。陽射しの注ぐ真昼と言えど、海はただ広がるばかりで、付き出る岩の一つもない場所だと言うのに。
「……何だ?」
 気のせいとして無視するには不安だった。彼は忙しなく辺りを見渡す。仲間たちが訝しがって彼を見たが――やがて、他の者も異変に気付いた。聞き慣れない音がするのだ。
 ぼ、ぼうっ。息を吹きかけたような音だ。何に。
 火にではないか?
 誰かがそう思うより早いか、ペダンドアの船員たちは自分たちの船の先で、火が宙返りするのを見た。火矢などではない。何もない所で火が明滅し、躍っているのだ。
 ぼ、ぼ、ぼ、ぼ。音は続けざまに聞こえるようになってきて、彼らが慌てて首を巡らせれば、甲板の上、帆柱の横、至る所に火の玉が見えた。火が帆を舐めているのも見えた。
 悲鳴をあげる者が居た。火だと叫ぶ者が居た。それがベサーカマーに立つタナマンに伝わる前に、火は帆へと燃え移った。赤々とした炎が青い帆に染め抜きかれた短剣紋を喰らい、燃え上がる。
 直後、船体を揺るがす轟音が海原に響いた。
「ペダンドア!」
 紅蓮が船団を照らす。それは一時、天から巨石が投じられたのかと思われるほどの衝撃だった。空で火が弾け、ペタンドアの帆柱を圧し折ったのだが、本当に火であるのか人々が疑うほどのものだった。凄まじく大きな火の玉は魔物か何かのようだった。熱風は鞭のように船員や甲板を打ち、船上を一瞬のうちに焦がし、大量の酸素を呑んで消えた。
 熱は後ろに居たベサーカマーの船尾にさえ届いた。誰もが呆然として、その熱と裏腹に背筋を冷やす。
 何が起こっているのか誰にも分からなかった。パラファトイの者には、誰にも。
 風の煽りを喰らい小柄な船体を揺るがせていたメネラーケンバルの船首に、タナマンはちかりと小さな火が瞬いたのを見た。もしかすれば、それは恐怖が見せた幻であったかも知れない。
 吹き出た汗が彼の首筋を濡らした。ガチンと鳴ったのは、歯が空気を噛んだ音だった。
「……逃げろ、皆だ、此処から離れろ!」
 合わぬ歯の根でタナマンが叫ぶ。連絡係が震える手で太鼓を叩き――その音を呑むように二度目の爆音が轟いた。彼らの視界が弾けた。

 海上で火が唸る。その恐るべき光景を、狐頭の指揮官は涼しい顔で眺めていた。その口元には笑みさえあった。予想通りの結果に彼は至極満足している。
「素晴らしい。さあ、前進だ。全船前進、奪取部隊は上陸せよ」
 告げて、船団を進ませる。燃え上がり沈もうとする船だった物と惑うパラファトイの船を横目に、彼は目を細めた。
「白い娘を探し、捕えたならばすぐに戻れ。我々は急がねばならない。――反抗するようなら火でもちらつかせてやれ。今度は家を吹き飛ばすぞ、とな」
 逆向きの風を受けた船の進みは早くはなかった。しかしそれは圧倒的な王者の、余裕の歩みのようでもあった。エルテノーデンは胸を張って進んだ。陸に近づくにつれて肌に触れる〈雨〉は歓迎するようでもあり、彼らを酷く高揚させた。
「……なんて力だよ、これは」
 異国の岸へとじりじり迫る緑の帆。その下で光る石を撫で、男はぼやいた。赤銅色の髪は熱の失せた潮風に遊ばれている。
 彼は自分の発した言葉の舌触りを確かめるように黙り込み、初めて見る異国の陸にばたばたと降りていく、見慣れた軍服たちの背を見ていた。

 敵うわけがない。
 と、戦場に居合わせた誰もが思った。それはエルテノーデンが先の戦いで、海戦の強者であったパラファトイに対して抱いた思いよりももっと単純なものだった。
 まるで理解できない出来事に対する恐怖。それが敵の仕業であるとの、危機感。
 吹き飛ばされて沈んだ二隻――ペダンドアとメネラーケンバルの船員の救助もままならぬままに道を開けた者たちはその出来事についてをまとまらない言葉で口走っていたが、皆、やはり宙に火が点き、急に燃え上がったと言う。ただの火矢などではありえなかった。まだ船三つ以上ゆうに離れていて、風は彼らの背から吹いていたのだ。火矢が届くはずもない。届いたとして、あれほどのものを生み出すわけがない。
 体勢を立て直して再び進撃しようなどとは、誰も考えなかった。彼らが以前軽くあしらった北の国は得体のしれないものを得て脅威の敵へと変貌していたのだ。
 港でも船を吹き飛ばした炎は見えていた。集った全ての人々が愕然として、冷たい汗で額を濡らした。ジヒタムとベサテルズでさえも言葉を失い立ち尽くすしかなかった。逃げてきた船乗りたちを詰る声など、あるはずもない。
 やがて、港は緑色の軍服で埋め尽くされた。パラファトイの民衆は誰も抗わず、魔物の群でも見るような目で彼を眺めていた。
「パラファトイ統領! 我々が何を探しに来たかは分かっているだろう。娘を大人しく引き渡せ。我らに、〈雨〉を返すのだ」
 先頭に出てきたのは、蜥蜴の頭を持つ大男だった。居並ぶ二人の統領に抜き払った軍刀の切っ先を向けて言う。
 ジヒタムの眉が寄り、ベサテルズの口が引き結ばれる。二人の手は得物として用意された銛を掴んだまま、硬い握りこぶしとなった。しかし、振るわれることはない。彼らの視界には敵と共に、怯んだ顔つきの男たちがいた。そして誰もに家族が居ることを、彼らはよく知っていたのだ。
 娘、とエルテノーデンの者は言った。手に入れるべき〈雨〉がどんな姿でパラファトイに身を置いているのか、彼らは知っている。もしかすればパラファトイの者よりもよく知っているのかも知れないとの思考が、ジヒタムとベサテルズの頭に掠めた。
「……そうすれば、この清い土が焦げ付くこともあるまい」
 蜥蜴頭の横で人間の男が言葉を足す。それがきっかけだった。ジヒタムは歯を食いしばりながら踵を返し、敵へと背を向ける。葛藤が揺らぐ青い目は、林に守られる神殿を見ていた。
 重い足で歩みだした二人の後を、エルテノーデンの軍人たちが追う。パラファトイの人々はそれを見るしかなかった。

 遠くに見ていた海の惨状、近づいてくる物音に震える自分を叱咤し、エファヴィは祭壇の傍らで小さな体を抱きしめていた。気丈に、という統領の娘としての心がけよりも、妹のような無垢な少女を安心させてやりたかった。
 壁に描かれた角の主の御姿絵に身を寄せ、目を閉じる。耳元で打つ早鐘の心音に、オルカの心臓も早まっていた。
「父さん、何を――」
 外から聞こえたフージャの声に、二人は揃って顔を上げる。しかし扉を破る勢いで開いたのは、彼ではない。
 新緑色の、見慣れぬ異国の服。エファヴィの顔がざっと青ざめた。
 無遠慮に踏み込む軍靴。揺れる剣。冷めた固い顔の男たち。神殿の敷物を汚し、巫女たちを押しのけて彼らは進む。
「そのような……此処を何処だと思っているのです……!」
「角の主様の御前でと、言いたいのか。これが? 妙な絵だ――」
 角を持った鯨の壁画を見て笑った軍人たちは、すぐに小さな体を抱える一人の巫女を見つけた。袖で掻き抱くようにした頭。腕を引けば、白い髪が見える。
「やめて!」
 エファヴィの抵抗むなしく、オルカは男たちの強い腕に奪われる。顔も体も強張らせた娘の姿に、軍人たちは一時、歓喜と畏敬の表情を浮かべた。
「〈雨の御子〉様。貴女にこの地は相応しくありません。我々と共に来ていただきます」
 乱暴に引っ立てるような動きではない。一人が跪いて言うと、震える巫女たちの前では多くの軍人たちが膝を折り頭を垂れた。異様な光景だった。軍人は貝細工をつけた小さな手を取り、神殿の扉へ――祖国エルテノーデンへと歩み始める。
「オルカ!」
 怯え、俯き従っていたオルカの顔が跳ね上がる。声は長く共にいた兄役のもの。しかし振り向くことは許されなかった。彼女の周囲は緑色の軍服が隙間なく覆ってしまった。
 連れられるオルカを追おうとしたフージャの体は、エルテノーデン軍ではなくパラファトイの仲間たち、父の手によって押さえつけられた。もがく彼の頬をジヒタムの手が張る。
「国のすべてがかかっているのだぞ、堪えろ!」
「それはっ……あいつに全部押し付けるってことじゃないんですか! オルカは俺の客――家族なのに!」
「そうだ!」
 自分たちの国の為に少女を売るのか、との言葉はジヒタムの怒号で勢いを失った。
「私はオルカで国を守ったのだ!」
 それが統領の決断なのだ。
 父の苦悶の表情に、フージャの体から力が抜ける。踏ん張るほどの力が入らなくなり、膝がかくんと折れて地面にへたり込んだ。
 宣言通り、それ以上は何の破壊行為を行うこともなく、エルテノーデンの靴音は遠ざかっていった。あっという間の出来事だった。



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