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八   迷子の行先


 その後何度もオルカの発言の意味を考えたフージャだったが、最初に思い至った以上のことは何も考えつかなかった。空事のようなことだとも思うが、未だ降り続ける〈雨〉――それも本来別の国を濯ぐはずだった奇跡――が判断を迷わせる。
 あの幼気な娘がそんな特殊な存在であるなどと言うことは、フージャには俄かには信じがたい。そして少なからず、それが知れればオルカが自分の元を離れていくだろうことが、彼には惜しくもあった。悩むうちに、他の者に知らせるのは遅れていった。
 しかし、そのまま黙っているわけにはいかなかったのだ。
「緑帆……エルテノーデンだ!」
 サクランカ沖――陸から離れ魚を獲っていた漁船の一つで、水平線を見やり漁夫が叫ぶ。集会で話しすぎ、考えすぎて見た幻などでは断じてなかった。
 新芽色の帆を膨らませ進む二隻の船。それは紛うことなく、エルテノーデンの大型船。それも武装し軍人たちを積んだ戦艦だった。
 エルテノーデンはパラファトイへの侵攻を決め、船に乗り込んだのだ。人質を取ったままにすべきだったと管理者が叱責を受けたのは、パラファトイの船が即座に国へと引き返した、その翌日のことだった。
「ああ物騒な格好だ。ありゃ兵士だろう」
「陸に上がらせるな――誰か統領に知らせろ!」
 追ってきた形になる異国の船を睨みつけ、漁夫たちは即座に連携を取った。漁に当たっていた船が集い、瞬く間に壁を作る。低い位置に見える漁船の彼らを見下ろすのは、二足で立つ大きな狐――獣人の男だった。エルテノーデンの中でも上層の、貴族階級の者だ。
「避けて頂けませんかねぇ」
 神経質そうに耳を動かし、立派な尾を揺らして尖った鼻先を上げる。指揮官として立つ彼は話し合いのために小舟を浮かべさせる様子はない。いくらか張った声に漁夫は皆眉を跳ね上げたが、
「エルテノーデンの方々、珍しいな、自ら船を出されるとは! 知らせは受けておらぬが、何をしにいらした!」
 それを制して口を開いたのは、タナマンだった。漁船の中でも大型のバンヤクペラクにたまたま乗り合わせていた彼は、統領家の一員として声を張った。
 狐の眼差しと彼の眼差しがかち合う。エルテノーデンの指揮官はまた尾を揺らして、腰の後ろで手を組んだ。
「物を探しに来たのですよ、我々は」
「一度小舟を降ろして頂けんか。話をして、何事もそれからだ」
 短いやり取りの後、睨み合ったままに沈黙が下りる。先に口を動かしたのは狐の頭を据えた男のほうだったが――声はパラファトイ側には聞こえなかった。蹴散らせ、と言ったのだった。控えていた軍人たちが即座に動き始める。
「――よぉ、そろぉ!」
 直進!
 予期していたタナマンが咆え、船員たちはその意味を違えずに解した。吹いた風を捉え、バンヤクペラクが前進する。
「ぬうっ!」
 エルテノーデンが慌てる内に、青い、魚の群れを描いた帆は迫る。衝撃。体当たりに船体が軋む音が不穏に響き、投石器に石を仕掛けようとしていた人々が甲板に転げた。
「この海で好きにさせるな! 叩き込んでやれ!」
 次ぐタナマンの怒号に応え、パラファトイの男たちは銛を掴んだ。軽く扱いやすい物は合図もなしに放たれ、既に混乱しつつあるエルテノーデン軍を掻き乱す。
 ――パラファトイとエルテノーデンがそれぞれに持つ軍事力を比べた場合、軍配はエルテノーデンに上がる。まず、数においてエルテノーデン軍はパラファトイの兵の倍は居るし、他民族との衝突が無く魔物に襲われることも少ないパラファトイの者に比べ、エルテノーデンの民は日頃から抗争や街の警護のために剣を握っている。総力で見ても、個人の力量で見ても、エルテノーデンが圧倒的だった。
 しかし、それも陸でのことだ。
 エルテノーデンの側は、この戦いのために初めて船に乗った者も多い。航行の最中でさえ船酔いに悩まされ、足元が落ち着かずにいたような者たちだ。練度の高い軍人といえど、それで戦場と化した船の上で、陸と同じ振る舞いができようはずもない。
 体当たりを受けて大きく傾ぎ揺れる船の上は、パラファトイの独擅場と言えた。
「ええいッ、立て直すのだ! 相手は兵士ではないぞ! 恥を晒す気か!」
 慌てた指揮官の声を耳に、タナマンは口角を上げる。
 ――誰がお前たちに船を教えたと思っている。此処で劣ることこそ、恥晒しだ。
「もう一度だ!」
 再び、鈍い衝撃が狐の足元を揺るがした。

「恩知らずどもは、物を探しに来たと言ったぞ」
 茶を啜りながら言った叔父に、フージャはびくりと肩を揺らした。
 結局、パラファトイの猛反撃に遭ったエルテノーデンの指揮官は、文字通り尻尾を巻いて来た海を引き返した。パラファトイの損害は漁船がいくつか。怪我人は出たものの死者は出ていない。純粋な戦士として送り込まれたエルテノーデン軍を相手にしたと思えば、素晴らしい結果だったが。
 エルテノーデンは何をしに来たのかというのが、問題だった。ただ〈雨〉が奪われた不満を爆発させに来たわけもない。如何に苛立ちがあるとはいえ、エルテノーデンの上層は八つ当たりを許すほど無能ではない。指揮官の言葉もある。
 集会所ではなくサガイの家でタナマンは言い、ちらと兄ジヒタムと、甥であるフージャを見遣った。二人が黙っているのを受けて、ふうと一つ溜息を吐く。
「きっと、〈雨〉のことだろう。あちらさんは、俺たちが〈雨〉を降らせる何かを持ってると思ってるに違いない。俺たちもそんなもの、心当たりもないんだが」
「オルカだ」
 結論の出ないことと思いながら言葉を零すタナマンを遮るようにフージャは言った。意気込んで声を発したので、彼自身が驚くほど大きな声が出た。壁を隔てたところで、ツァマルやエファヴィ、当のオルカも何事かと顔をあげるほどの声だった。
 はっ、と息を吐き、フージャは父と叔父を見る。こんなことなら早くに伝えるべきだったと、後悔を湛えた眼差しはすぐに伏せられた。
「オルカは角の地から来た……雨を降らせる存在なのだと、聞きました。御方はオルカの為に雨を降らせてくださるのだと」
「何を」
「ベサーブーキに乗って来たんです。俺たちが礼拝から戻ってきたときに」
 与太を言うなと返すジヒタムに、フージャは更に返す。
「何を馬鹿なことを。オルカが角の民だというのか」
「あいつが嘘を吐くと思いますか」
「だが子供だろう」
「待て、スルンの家が来るまで待とう。俺たちだけでしていい話じゃない」
 呆けていたタナマンが窘める。そうして見た部屋の入口に、様子を見に来てしまった女たちの姿を見て顔を顰める。
 ジヒタムが立ち上がり、妻の元へと歩み寄った。その後ろに隠れついてきた少女の白い頭を見下ろし――膝をつく。低い位置に来たジヒタムの顔を見つめ、オルカはぎゅっと、ツァマルの裾を握る手を固くした。
 その姿。言われてみれば色の白く、天に座す雨雲と似ているように人の目に映る。
「オルカ。フージャの言った話は本当か。お前が角の地から来て、雨を降らせているのか」
 努めて柔らかくした声音で訊ねるジヒタムに、オルカはフージャの顔を窺った。フージャは小さく、促すように頷く。
「降らせてるのは、角様だけど、えっと……角様は、オルカのために……」
 細い声がぼそぼそと問いを肯定し、女たちが目を丸くし、男は重い息を吐く。
 確かに――フージャも思ったとおり、状況と返答は合致するのだ。原因がオルカならば、説明はつく。
「……奴らはきっともう一度来るぞ。〈雨〉の為なら、誰だって諦めたりはしないだろう」
 タナマンが重く言う。〈雨〉の、と言ったとき、視線はオルカに向けられていた。
「奴らはオルカを狙うかもしれぬ」
「オルカが角の地の巫女だと言うならば、角の地にも知らせねばなるまい」
「だが船は出せん。今出すと奴らに捕えられるやもしれんからな」
「ジノブットの側から回る他あるまい」
「ティガブールを出せるか」
「このまま置いておくのも拙いかもな、すぐに船に乗せて……」
 サガイとスルン、統領家の話し合いは一晩徹して行われた。フージャは日頃より口数少なく、ただ彼らの話を聞き、決定に頷いた。
 翌朝、眠り浅く目覚めたオルカの横で彼女の目がはっきりと開くのを待ち、フージャは口を開いた。自らの客人にパラファトイの決定を伝える、次期統領の面持ちだった。
「オルカ。エルテノーデンはお前を狙ってる。勿論、俺たちの国に入れたりはしないけどさ。一応お前は、姉さんと一緒に安全な場所に隠れて――」
 顔を曇らせる少女に、彼は安心させるように笑う。
「支度が出来たらすぐに〈角の地〉に帰してやるから」
 オルカについてとそれに伴う決定はすぐに開かれた集会で民にも伝えられたが、人々の心を映すように海は時化となり、ティガブールの出航は先送りとなった。オルカはエファヴィに連れられ神殿へ身を置き、ただの迷子、客ではなく、守られるべき〈雨〉の象徴として見られるようになった。
 そのことは、オルカにとっては喜ばしいことではなかった。
 香が焚かれた居所は清潔で過ごしやすい環境に整えられていたが、オルカにはどうにも居心地が悪い。今までは気軽にお喋りに付き合ってくれたおばさんたちもさすがに遠巻きになり、まるで腫れ物に触れるようだ。
 気侭に遊ぶこともできず、話し相手も少なく、当然、家事の手伝いなどすることもない。不安と不満を抱えた少女――〈雨〉を呼ぶ巫女姫の姿に、付き人となったエファヴィの胸も痛む。〈雨〉の象徴になったとはいえ、彼女にしてみればオルカは妹のような娘だった。
「オルカ、家に帰りたい」
「すぐにフージャたちが送ってくれるわよ」
 俯き零す呟きにはエファヴィがすぐに優しく返した。柔らかい声音に、ううん、とオルカは首を振る。
「フージャの家に帰りたいの。皆と一緒で楽しいもん……」
「……〈角の地〉に、帰りたくないの?」
「ん……」
 目を見開いたエファヴィの問いになんと答えたらいいのかわからず、オルカは口ごもった。二人が暫く黙り込んだ間も〈雨〉は屋根を打ち、ぱらぱらと音を響かせていた。
 少女の置かれた立場は元々複雑なものであったのだろうと、エファヴィは思う。彼女はもう三月もオルカと共に居るが、一度も、「元居たところに帰りたい」という言葉は聞いたことがない。帰る、と言うときは常に仮住まいであるはずのサガイの家を示していた。
 〈角の主〉の慈悲を受けた、特別な子供。その小さな身一つには抱えきれぬものを持っているのではないかと、容易に察することができた。
「――ね、これをあげるわ。此処に、パラファトイがあるわよ。何処に行っても一緒だわ」
 どうにかしてやりたいが、何ができるだろう。考えた女は、ふと視線を落とした己の手首に飾りを見つけ、それを外した。
 紐に通された輝石のような物は、ペラギ貝と呼ばれる平たい二枚貝の貝殻だ。極めて黒に近い濃灰色をした楕円の表面には真珠層があり、虹色の光を弾いている。パラファトイでは色々な飾りや細工に使われ、国土が疲弊する前のエルテノーデン、内乱の始まる前のジノブットでは他には見ない色味が貴族などに持て囃されていた。
 そんな代物も、パラファトイにおいてはそこまで高価ではない。腕の良い細工師が手をかけたならば話は別だが、貝自体は、探せばそう労せずに見つかる。真珠を探すのよりはよほど楽だ。だから女たちは誰もが飾りの一つや二つ持っている。
 貝殻に穴を空けて、紐を通す。エファヴィが手にしていたのは貝細工の中ではもっとも簡単で単純なものだが、それだけに誰もが知って、誰もが持っている、パラファトイ人の持ち物と言えた。
「ほら、手を出して」
 エファヴィは留め紐を外し、言われるままに持ち上がったオルカの手に合うようそれを結わえてやる。来た時とは違う服を着て、娘たちの好む飾りをつけたオルカは、色が似つかずともまったくこの地の者だった。
 エファヴィは破顔した。彼女も昔はフージャでこうして遊んだ物だが、本当に弟が幼い頃は口に入れてしまうからと母親に窘められ、少し大きくなってからは、男らしくないと嫌だと当人に嫌がられてしまった。サガイにとって待望の跡継ぎであったから、ジヒタムもその辺り、昔からよく言いきかせていた所為だろう。
「おそろいね」
「……似合うっ?」
 細い手首を飾る美しい貝殻とエファヴィの呟きに、オルカの機嫌はいくらか上向いたようだった。常のように跳ねる声で訊ねて首を傾ぐ。〈雨〉を齎す雲のように柔らかな髪が揺れた。
「ええ、素敵。今度フージャにも見せてあげてね」
「そうする! あとね、お母さんと、ルバトと、皆に見せる!」
 笑うオルカは幸せそうに見えた。だから此処に居てもいいのだろう、とエファヴィは思う。世間がそれを肯定しないだろうことは、改めて考えずとも明らかだったが。



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