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十一  緑の国に向かう船


 朝陽が照らす無人の洞を眺め、ベサテルズはきっと眦を吊りあげた。後ろに控える息子を振り返り、その、強張った顔を見る。
「いつからだ」
 低い声が灰色の石壁に木霊して震える。怒鳴りつけるのではない父の叱責の声に、ベサバルトは一度口を引き結んだ。
「いつから居らぬのだ。自分が何をしたか分かっておるのか」
「父上」
 そうして、弓を引き絞るように溜めた空気と共に吐き出す声で、続く言葉の礫を遮る。敷物の無い剥きだしの床に膝をつき、巨人の子は父を睥睨した。常は一回り大きいに過ぎないと思える父親も。この時ばかりは、大きな滝のように圧倒する物を備えていた。だが、怯まない。
「父上。フージャは考えなしではありません。我ら――パラファトイを危険に晒すようなことは、万が一にもないでしょう」
 ベサルバトは父親を見つめた。ベサテルズは黙っていた。
「国の立場も、己の立場も分かっている。しかし我らは……愛する者のために何かをしてはいけないのでしょうか」
 次代の統領が二人、公を無視して私を押し通す。あってはならないことだと誰もが言うだろう。少なくとも、公の場では。
 だが、私情ではどうだろうか。誰が幼気な娘とその兄役のその想いを、ならぬことだと言うだろうか。誰も言いはすまい、と、ベサルバトは断じた。ならばこれも民の意と言えるのではないかと。
 詭弁、言い訳。フージャをその気にさせるためだけの弁舌だった。フージャもそれを分かっていた。分かっていて乗った。
 ベサルバトは戸を開け放ち、「行け」とフージャに言った。はっとしたフージャは目に強い意思を宿し、「行く」と応じた。〈角の民〉の男が見守る横で、彼らが最後に交わした言葉はそれだった。〈角の民〉もフージャと共に姿を消し、後のことは、ベサルバトの手を離れている。だが、彼にはフージャがどう動くかは分かっていた。
「事が大きすぎる」
「大事の根は小事と申します」
 怒る父を前に、ベサルバトは送り出した友が無事に港に至ることを願った。そして、オルカがやって来たときと同じように隠れて船に乗り、海へと出ていくことを。
「オルカがこの地に来たのは、意味のあることなのでしょう。獣に奪われたとはいえ。選ばれたのはこの地である。何か意義があるのでしょう。――私はその意義が、我々や、フージャであるのだろうと信じているのです」
 〈角の主〉か、〈冬の女神〉とやらか。〈雨〉か〈冬〉か。そのようなことは、大事だが小事、些末のこととベサルバトには思えた。彼もまた公よりも私の衝動を優先してしまうところのある、若い男だった。
 幼い少女の笑顔は彼の心の中にもあった。忌まわしい〈冬〉ではなく、オルカとして。
「フージャはエルテノーデンへ参りました。勿論、オルカを助く為です」

 波の音がこんなに悲しいものだと、オルカは知らなかった。
 最初は、ただ大きく広く、恐ろしい感じのしたものだった。その後にはわくわくしたものに変わった。自分を育ててくれた人が、海は国と国を繋ぐものだと教えてくれたからだ。パラファトイに来てからは、穏やかで、楽しくて、生活の一部だった。
 それが今は。この波の音がオルカとパラファトイを、大好きな家族を引き裂いた。この波が、船を運んでオルカを島国の岸辺から遠ざけてしまう。別の陸地に心躍らせた、事の始まりのときのように。しかし、その時とは違って気持ちはまったく沈んでいた。
「まったく、白い以外は、ただの娘にしか見えんな」
「雑な扱いをするのではないぞ。彼女こそ〈雨の御子〉――角の主様の寵愛を受けた子供だ。我らが土地を浄めてくださる、〈角の主〉様の姫だ」
 間を繋ぐということは、隔てているということと実は同じなのだと、オルカは知った。
 オルカ、と呼ぶ声が波と風の音に混じった気がした。
「フージャ――」
 オルカはぽつりと呟いた。いつも彼が船で出るときは見送りに来ていたのに、オルカが行くときは見送りに来てくれないなんて、なんだか不公平な気もした。
 オルカの見慣れぬ新緑の帆に風を受け、船は大陸、北のエルテノーデンへと辿り着いた。


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