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十七  風花と少女


 日に焼けた太い腕がぐうっと喉に伸びてくるのに、オルカは驚いて後ろにすっころんだ。〈雪〉に尻餅をつき、慌てて顔をあげると、その上を腕が通り過ぎる。けれど息をつく暇もなく、刃が上から振ってきた。顎をそらすようにゆるく曲がった剣が目の前いっぱいに迫るのに、しゃにむにに体をひねって避ける。
 剣が〈雪〉と触れ合う音は、まるで硝子が割れたときみたいだった。昔のおうちで、『お供え物』を粉々にしてしまったことを思い出す。あのときは怒られたのだったか、どうだったか。
 少なくとも、今は睨む目をする王様はオルカに怒っているようだった。
 わけもわからず、闇雲にあたりの〈雪〉をつかんで放り投げた。爪で削り取るように固かったけれど、手から放たれたときはぱっと風のなかに広がる。
 王様は弾かれたようにオルカから飛び退った。
 オルカは無我夢中で〈雪〉を何度も放り投げた。頭のなかで鐘が狂ったように鳴り響いて、それを急かしているようだ。
 王様の舌打ちと小さな声が聞こえてきた。
「化け物が」
 変な音を立て続けていた心臓が、胸のなかで勢いよく膨らんだ気がした。喉やお腹、骨なんかを一気に押し広げて息苦しくさせる。見開いた目のなかにいた王様の姿があっという間に涙で歪んでいった。
 わかっていた。
 ずっと、どこかで気づいていた。
(オルカは、なんか悪いことなんじゃないかって)
 耳にはっきりと染みついた言葉を、王様の強い声がふとなぞった。
「お前の存在そのものが世界を殺す。――お前は害悪だ」
 オルカは喉を引きつらせた。
(頑張ろうと、思ったの)
 なにが間違っていたのだろう。
 自分自身で何かができるということ。なにかがつくれる、変えられるというのを教えてくれたのはパラファトイでの過ごした日々だ。だから、その鮮やかな日々をまぶたに思い返すばかりだったことを恥じて、砂の地に来たときからオルカは頑張って動きつづけた。
 例え、自分の思うとおりにならなくなって、王様の言うことを聞かなくちゃいけなくたって、どうにかきっと術はある。
 目つきの悪いお兄さんに言われて演説をしなくてはならなくなったとき、夜を透かし見るようにして考え抜いた。人の前に出たときなんかは足が震えた。オルカを向く目は星ほど数えきれずあり、騒がしい心臓をためつすがめつしているようだった。そのなかでもオルカはどうにかでも方向を変えようとした。
 だけど、そうしたら――王様がやってきた。これは罰だと言った。
 例えばこれが王様の言うことだけだったら、オルカだってそんなことは考えなかった。王様だって間違ったことを言う。けれど。
 小さな頃から〈雪〉については話を聞いていた。昔のお家には『お兄さん』がいたから、彼はどのようにそれが芽を出すか、手を広げるか、そうしてどのように絡めとるか、とてもきれいな声で詠ってくれた。怖いの、と聞くと柔らかに笑んで、とても大変なものだと告げた。たくさんの人々が怖がっている神代の息吹だと。
 オルカは〈雪〉を見たことがなかった。パラファトイに行くまでいたお家は険しい山で、そのなかで灰色の布をひっかぶった角を持つおじさんやおじいさんが、まどろむように日々を過ごしていた。そこには足下には緑も赤も黄もなかったけれど、かわりに真っ白な〈雪〉もなかった。積み重なる灰色の大きな岩と、荒い波の灰青色の海だけが世界のすべてだった。
 見知らぬ誰かの気持ちを想像することは難しいことだったけれど、ぼんやりと嫌だな、と思ったのは覚えている。『いや』という気持ちは知っている。誰かがそんな気持ちになるならば、特別な理由なんてないけれども『いや』だった。
『なんでそんなのがあるの?』
 楽器の弦をゆるくつま弾く指をとめ、お兄さんは紫の目をしずかに細めた。当然の問いへの答えは、いつもと変わらぬ調子で語られるおとぎ話だった。
『――物事には……生命にも時に終わりが必要で、女神様が、それをお役目として手になさったから。けれど貴女が言うように、このことはとても――そう、いやな感じがして。女神様もそうで、だからご自分のお役目が悲しかった。ずっとお一人でしたしね。でも今は心配要りませんよ。我らの主様が、女神様のお傍にいらっしゃいますから』
『もう女神様は一人じゃないのね?』
 お兄さんは、ふっと目をあげて遠くを見た。少しだけ考えるようしてから、ええ、そうですね、とつぶやく。
 そのときは、女神様でも嫌な役をすることがあるんだなあ、と思っただけだった。けれど、ジノブットに来て、変なお役目をしなければならなくなったとき、ふっと思い出した。
 女神様は、きっとしなければならないと思ったのだ。誰かが。どうしても。
 可哀想と思ったわけではない。けれど、その気持ちがひどく身近に感じられた。
 はじめて間近に〈雪〉を見たときもそうだ。みんなが言うような恐ろしさはどこにもなく、ただ自分の肌やつま先を見ているかのような気分しかなかった。
 もっと心を黒く浸食していったのは、人々のたくさんの人がそれに触れて、苦しげに倒れていった光景だった。
『なにをした』
 王様がなにを言っているのかわからなかった。けれど、その後に来たクランお兄さんも、猫のお兄さんも何も否定してくれなかった。――フージャでさえ。
 大事に手のなかに持っていた卵を、落として割ってしまったような心地がした。
 なにを間違えていたのだろう。
 王様の求めに応じて話をしなかったことだろうか。お姉さんを助けようと思ったことからだろうか。それともずっとずっと前から、一番最初から誤っていたのだろうか。
 お家の岸辺に船がついた日、こっそりとなかに潜り込んだときのどきどきを鮮明に覚えている。ちょっとした冒険。そうして、はじめて角のないひとを見た興奮がからだを突き動かしていた。
 同じ人。オルカとおんなじ姿の彼らに、どんなお菓子にも景色にもかなわない嬉しさを感じた。彼らの帰るところには、きっともっともっと同じような人がいる。そんな好奇心が、波に眠りこけたような船に足をかけさせた理由だった。
 けれど、パラファトイで過ごすうちに、世界は灰色のかぶりを脱いで色彩にあふれかえるようになった。鮮やかな景色と、雑多な匂いと、騒がしい音の連なり。生成りの服が肌にこすれる感触とか、にぎられた手の温かさとか、たくさんのものがオルカを取り巻いた。
 オルカを世話してくれていた、もとの家のお兄さんは優しい人だった。どんなときにも声を荒げることもなく、柔らかな声音で問いに応えてくれる。だけど、とたくさんの人々に囲まれるようになったオルカはようやく気づいた。伸ばしても応えられない腕が、今までたくさんあったこと。それが小さく小さく降り積もっていつしか山になっていた。
 それが船に乗り込んだ、隠れた理由だったのかもしれない。
 けれど、寂しくてもだめだったのかもしれない。なにが悪かったのか、どうして悪かったのか、どこから悪かったのか、なにもわからない。
 そもそも最初からわるかったか。王様が言うとおり、オルカがいることが『害悪』なんだろうか。
(頑張っちゃ、だめだったのかな)
 手のなかで卵が割れている。じたりと濡れて、手のひらが粘つく。
 その感触をよく覚えている。パラファトイではじめてお手伝いをした日だ。そんなことをやったことがなくて、勢いよく器の縁にぶつけると、卵の殻は粉々に割れてしまった。手が汚れたままびっくりして目を瞬かせていると、日に褪せた皺深い手が伸びて糸を断った。フージャのお母さんの手だ。
 次はもう少し力を抜くといいわよ、優しくね開けてやるの。声は柔らかく、笑いがにじんでいた。はい、ともうひとつの卵がこともなげに渡されてオルカがうけとると、頬にえくぼがひらめいた。
『さ、失敗したら、もういっかいやってみればいい』
 手から柔らかく粘りがはがれていく。かわりに、握った手の感触が蘇ってくる。驚いて見上げたときのフージャの背中が目の前に広がった。
 息を吐いた。
「……から」
 〈雪〉を力強くつかむ。顔をあげる。
 きっと王様を睨みあげて、力いっぱい〈雪〉を放り投げた。
「オルカは、何度だって頑張るんだからっ!」
 ふわりと舞い散った白い粉のなかで、王様の顔が苛立ったように歪んだ。


 噴煙にまかれたように、フージャの目にオルカの姿が見えなくなった。
 さすがに〈雪〉相手では王も気軽に手出しはできないようだった。うかつに剣で払おうとすれば、腐食がはじまる。からだに付着すればなお一層悪い。飛散する〈雪〉を避けるために飛び退り、徐々に距離が開いていく。
 フージャは走りはじめた。
 その隣を、突風のごとく誰かが追い抜かしていった。フージャが顔を見る間もなく、王の背後へと勢いよく近づいた彼は、湾刀を上から振り下ろす。その刃は振り向き王が薙いだ刃とかみ合って、小さな火花を散らしただけだった。彼は無理に腕を振るわずに、すぐさま王の懐からとんで離れる。遅れる三つ編みの留め具が、追ってきた王の湾刀に食まれて壊れた。
 猫の獣人がなお距離を保とうとしていたとき、そこに肉薄してくる影にフージャは気づいた。
「シハーブさん!」
 彼は弾かれるように振り返ろうとした。
 それよりも早く、現れたアギフの湾刀がその背中へと鋭く走った。ほどけかけた三つ編みが半ばから断ち切られる。だが皮膚には浅くかすっただけだった。
 フージャが思わず近づこうとすると、シハーブの怒号がつんざく。
「いいからさっさと逃げろ! 後ろからくんぞ!」
 声につられてフージャが返り見ると、たしかにラカンヌたちが迫ってきているのが見えた。数は少ないが、フージャの手に余るのは目に見えていた。
(テオバルトさんは……!?)
 とっさに離宮へ顔をむけたが、そこに認めた影は予想とは違っていた。クランフェールが徐々に近づいてきている。
 赤髪の騎士は一直線にフージャに近づいてくると、無事か、と第一声で問いかけた。すばやくフージャがうなずけば、いたずらを企むよう口の端を持ち上げる。
「後ろからあいつらが……!」
「気にすんな。ちゃんと援護があっから」
 クランフェールの言葉どおりに、矢が夜を走っていく。テオバルトには何の問題もないようなのだと、フージャはつめてた息をはいた。
「ん、お前も動けるみたいだな。上出来だ。……〈雪〉が強くなってることもわかってんな?」
 フージャは静かにうなずいた。よし、とクランフェールは呟き、自らの懐に手を入れる。取り出した手のひらに握られているのをみて、フージャははっとした。顔をあげると、クランフェールはひとつうなずき、フージャにそれを差し出した。
 ぐっと力のこもるクランフェールの手には、黒い石がある。手のひら大の石の表面には、淡い青の光が細波のように走っていく。魔石だ。
 フージャは静かに息をついて、それを受け取った。
「俺が王を足止めする。その間に」
「オルカに渡します」
 きっぱりと言うと、クランフェールが笑ってフージャの肩を叩いた。少したたらを踏んでから慌てて睨みつけると、クランフェールは笑いをおさめて妙に真剣な顔をしている。
「いいか、時間はねえからな。たぶん持つのもそう長くない」
 動いたクランフェールの目線を追えば、オルカはいまだ王と対峙している。黒豹の女がそのそばでシハーブと剣を絡ませあっていた。女の猛攻にあい、シハーブは劣勢に見えた。おそらくはあれが一番時間のなさそうな原因だ。
 いくぞ、とのかけ声に、フージャは走りだした。クランフェールはすでに、我先にと駿馬のごとく飛び出している。〈雪〉の影響などまったく受けていなさそうなほどだ。
 フージャは手のうちの魔石をぎゅっと握りしめた。
 オルカがみるみるうちに近づいてくる。
 王が気だるげにこちらを顧みた。オルカも〈雪〉を握ったままこちらを見ている。
 クランフェールが速度をあげて王に挑みかかった。剣先が空を裂いて王に肉薄するのをフージャは見届けず、彼から離れるようにして進路をとった。王に、そしてアギフに絡まれないように大回りをしながらオルカに近づいていく。
 徐々に大きくなっていくオルカが、にぎった〈雪〉を放り投げるのが見えた。飛び散る白い粉に王がまた大きく飛び退き、クランフェールが〈雪〉を避けながら一歩大きく踏み込む。腕の一部になったように槍が、王の傷を負った肩へと伸びていく。
 オルカ、とフージャが呼びかければ、オルカが顔をあげた。どうしてだろう。その顔は、なんとなく。前に見たときと同じ、ずっと生き生きとしたものに見えた。
「これ受け取れ!!」
 オルカの顔に走った戸惑いは一瞬だった。弾かれたように立ち上がると、ふらつく足ながらもフージャに向かって走ってくる。足を怪我しているから、その速度はいつもよりずっと遅い。
 フージャもこっちも〈雪〉で体力が削ぎ落とされているからそう変わりはしない。立ち止まりそうな足を懸命に立て直し、吐き気を飲みこんで、フージャはぐっと魔石を握る。
 罵声と剣戟が絶えず響いていたけれど、オルカはただただまっすぐ向かってくる。迷いはどこにもなかった。
 すぐ傍まで近づいたオルカが手を伸ばした。
 フージャの握っていた魔石を、その指が、しっかりと掴みとった。

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