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十六  王に捧ぐ


 突然、体に負荷がかかった。
 動きが鈍る。クランフェールはまっさきにそれを気にかけて、乱暴に曲刀を弾いて飛び退いた。簡単にはいかないかと思ったが、思いのほかあっけなく黒豹の女はそれを見送った。
(なんだってんだ?)
 クランフェールが眉をよせたとき、悪寒が襲ってきた。ぎょっとする暇もなく今度は吐き気がこみ上げてくる。
 まさか。ありえない。どんな状況であっても〈雪〉への配慮は怠っていなかったはずだ。
 素早く自分の体に目を走らせたが、危惧した〈雪〉の付着はやはり見られなかった。だがそうなるとなお変だ。
(〈雪〉の影響が強くなってる?)
 理由はなにかわからない。だがオルカが関係していることだけは間違いない。考えを読んだように女が、時間がないな、とうそぶいた。
 まったくだった。時間がない。それなのにフージャたちに背を向ける格好になっているせいで様子を窺えないのも問題だった。それを許してくれるほど、甘い相手ではないだろう。振り向けばその隙に死角を狙ってくるに違いない。
(どうする。このままじゃ〈雪〉にやられるのが先だ。が、かといって〈雪〉にすごすご負けてくれるような可愛い奴らじゃないだろうし。どっちにしろ死ぬぞ)
 特にフージャ。〈雪〉に浸食のされないオルカなら長期戦になれば見込みはあるかもしれないが、フージャは〈雪〉にも兵士にも対抗手段がない。
(俺にしたところで、逃げれたあとで〈雪〉で死ぬんだろうが)
 汗で滑りそうな剣をあらためて握り直す。と、巨弓から放たれた矢のごとく、女が肉薄してくる。振り下ろされる剣を受け、流し、薙いで、止められ、押して、弾いて、狙って、そうして剣はまたかみ合った。まるで型試合をしているようだった。打ち鳴らされるリズムがこれほど整いあっているのも珍しい。
 だが、肌がひりつくような緊張感は違った。そうして目に見えて刃こぼれしている剣の状態もそれを教える。
「こんなことしてる場合かよ。……お前だってわかってんだろ。〈雪〉が強まってる」
「まったくだ。遊び過ぎだな……っ!」
「っ、わかってんのか、この状況! ほんとにオルカを殺す気かよ!? オルカを殺したらどうなるかわからねえんだぞ!!」
「だから?」
 瞠目するクランフェールへ、かみ合った剣越しに女が荒い息で笑う。ひどく愉快げに。
「わたしの王が殺せと言った。なあ、騎士。これ以上の理由が必要か?」
 王。
 それに仕えるもの。
 理解の指が、ほんの少し心のひだに触れた。クランフェールは女と同じように笑ってみせた。
「思わないね。おれの王はそんなことはおっしゃられない」
 無慈悲なことは言おう。道理にかなわぬことも言おう。なぜなら主は王だからだ。だが、ジノブットの王とは違う。彼がそれを命じるとき、他に道がないときだ。そして、そこには深い悔恨がともなう。
 主は、決して慈悲の心をなくしはしない。
 ゆえに、自分の主なのだ。
 耳にした女が軽く笑った。寝首を掻きとられそうな王だ、とうそぶく言葉を聞けば、内実まではわかっていないようだった。あるいは、わかっていても認めやしないのかもしれない。自分の王が緑深き国の獅子でしかないように、女の王は黄砂舞う国の狼でしかなかった。
 剣を弾くようにして、ふたり同時に飛び退く。
 クランフェールは素早く周囲に目を走らせた。離宮の前庭として開けた一帯は、普段ならば整えられた地面とごてごてした花やら木やらが咲いているのだろう。今は〈雪〉で固められ、その雪明かりであたりをうっすらと光らせている。
 そこにうごめいている幾人かの影が目の端に映る。おそらくはシハーブたちだろう。剣戟が鳴り止んでいないため、ひとまずはまだ彼も死んでないようだ。
(応援は期待できない。ってことは魔石を渡すのも無理か)
 魔石は触れただけで〈雪〉を吸収してしまう。オルカの〈雪〉を吸収する前に、地面の〈雪〉に触れればその効果がなくなってしまうことは十分にあり得た。
 フージャたちとの距離はわかっていなかったが、少なくとも手渡せる距離にいないのは確実だ。下手に放って受け止め損ねでもすれば一巻の終わりだった。
 であれば、方法はひとつしかない。
 時間はない。〈雪〉の浸食は、王が言ったとおりに色んなものを食い尽くしていく。フージャも、自分自身も、そして。
(リアも)
 だから可及的速やかにこの女をぶっ倒してオルカに魔石を手渡す。これしかない。できないはずがなかった。今までだって手を抜いてきたわけではないが、気合いが違う。これは己の誇りをかけた勝負に他ならない。
 負けられるはずもなく、また負けるはずもなかった。
(やばい)
 そんな場合じゃない。わかっている。だがしかし。
 ――ぞくぞくする。心臓から飛び出していく血の一滴までもが沸騰し、あらゆる〈雪〉の影響を溶かして蒸発させていく。これほどの相手に、これほどの状況で出会えることが、この人生で一体どれだけある?
 アギフの瞳孔が針のように細くなる。しなやかな筋肉がその背をたわませた。ばね仕掛けのように女豹が跳びかかってこようとする寸前に、クランフェールもまた地を蹴った。


 フージャは星の散る視界を振り払うよう、乱暴に頭を振った。
 王の声が聞こえた。すぐに敵がくる。逃げなくては。
「オルカ」
 口を開くとそれだけで胃ごと出て行ってしまいそうな気がした。唾液をぐっと飲み下し、なんとかしてそれに耐える。吐いて体力をなくしてしまうのも怖かった。
「オルカ、大丈夫か……」
 体を丸めたオルカが〈雪〉の上で震えていた。ぎこちなくあげた顔が涙で濡れていて、とっさにフージャは握ったままの手に力をこめた。
 王の投げつけた湾刀はオルカの右のふくらはぎの肉をかなり乱暴に剥いでいったようだ。傷口はえぐれ、乾く間もなく新しい血が滴り落ちる。骨は見えなかった。
 あたりを見渡せば、ラカンヌたちがふたりこちらに向かってくるのが見えた。
 フージャはオルカの傷に触らないように起き上がる手を貸した。オルカは一瞬戸惑い、けれどおそるおそるフージャの服をつかんで立ち上がる。
 円形状の前庭からは支流のように入り口がいくつもある。離宮の前にのびる道が太くはやく外に出られるが、シハーブがちょうどラカンヌを足止めしているところだ。素早く目をまわして一番近い小道を見つけた。葉をしなだれさせた椰子の木々の間を、低木が連なって道をつくっている。すべて〈雪〉に覆われていたが、どうせどこも同じだ。
「オルカ、見えるか。あそこから出るぞ」
 彼女は小さく頷いた。
 肩を貸すようにして、強引だったが引きずるように早足にした。肩越しに振り返ると、ラカンヌの輪郭がさっきよりもずっとはっきりしていた。足音まで耳に触れそうで、心臓が嫌な音を立ててずっと暴れ狂う。
 ラカンヌたちを足止めできるようなものはないだろうか。投げつけられるもの。小振りで固いものがいい。だが何もない。あるのは一面の〈雪〉だけ。
 小道に入ればどうにかなるだろうか。わからない。いつもならひとっ飛びで駆け抜けられる距離が、海の果ての果てにある見知らぬ国ほどに遠く思えた。
 振り返る。そのとき、ラカンヌの目とかち合った。心臓までがすくみ上がる。
 間に合わない。
 オルカが肩にまわした腕を、フージャは強くつかんだ。
「――オルカ、いいか。よく聞け。今から手を離すから、だからそっから一人であそこから逃げろ。わかったか?」
 オルカはのろのろと顔をあげた。フージャは強い口調で繰り返した。
「……なん、で」
「あいつらが追ってきている。このままじゃ間に合わない。だから、オルカ先にいけ。いいな!?」
「や、やだ……フージャ、なんで」
「いいから! 時間がないんだ!」
 手を離して、フージャは走りだす。オルカの呼ぶ声が背中に追いすがった気がしたけれども、それも暴れ馬に似た心臓の音にかき消されてよくわからなかった。
 向かってくるラカンヌはひとりが蛇の獣人、もうひとりが熊の獣人だった。蛇の獣人のほうがかなり先行している。きっと身軽なせいだ。
(できるか)
 わからなかった。だがやるしかない。やらなければ、どっちにしろ終わりだ。
 そのとき、蛇に矢が刺さった。
 一矢がまた夜を裂いていくのが見えた。熊が倒れる。続いて暗がりの先で、またフージャたちを追ってきたらしい男がうめいて倒れていった。
 はっと振り返り、矢の道筋を追った。誰か立っているのを見つけた。離宮のすぐそばだ。その見覚えある姿に、息をつまらせる。
「テオバルトさん……」
 無事だったのだ。安堵の息がもれだしたが、駆け寄ってそれを喜ぶいとまもない。だが心強くなったのは確かだ。きっと背後を守ってくれる。
 フージャは急いで身を翻して、オルカのもとへ駆け戻ろうとした。
 けれど、出口にほど近いオルカのそばにいる男に気づき、戻ったはずの血流が一気にして温度を下げた。
 王がオルカに向けて、その腕を伸ばしているところだった。


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