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十五  賽は投げられた


 遠くに打ち捨てられた松明が、あたりをほのかに浮かびあがらせていた。朱色ではなく、鉄錆のような鈍い赤色だ。〈雪〉の白を、兵士の背を、そうして王の輪郭をとどまらずに舐めている。
 明かりは顔をよく映さず、ただ大柄な体つきだけを露にしている。折れた湾刀を握ったまま、しっかりとした足で立っていた。まとった服は砂漠の民族衣装だ。ガラベーヤを腰で絞り、頭は軽く布を巻いている。
 一面の白に染まった景色のなかでは、それはあまりに薄着に見えた。足回りには浸食してきた〈雪〉も触れているようだ。息を荒げているのもその証拠だろう。
 なのに、男は揺らぎなく立っている。
(これがジノブットの王……)
 王はかっと目を見開くと、向かい合うクランフェールに罵声をあびせた。
「そこをどけろ! それが何なのか、お前たちはわかっているのか!?」
 異様なまでの剣幕だった。オルカの肩が跳ね上がる。
 フージャは慄然とした。オルカに刃を振り上げる姿をみたときから想像がついていたが、やはり王は勘づいている。オルカが〈雪〉に関連していると。
 何を言うべきか迷いが駆けた。そのためらいが、瞬時に王に伝わる。はっとしたように、動きを止めた王は、すぐに憎々しげな笑みを浮かべた。
「……なるほどな」
 喉の奥で笑ったかと思うと、すぐさまけたましい声で笑いはじめる。身を折って、引きつるように笑い続けたか思えば、虚脱するように声をしずめた。その様は狂気じみていた。
「そうか、そうか。そういうことか。飼い犬に手を噛まれるとは我ながら滑稽なことだ」
 絶句したままの三人に向けて、王はぎっと目をあげた。
「何を言われた? 何と引き換えだ? これが〈雨の御子〉でないことをお前らは知っているんだろう? どっちの差し金だ。エルテノーデンか、パラファトイか。これを使って何をするつもりだった?」
「なにを……」
「お笑いぐさだ。何もならん。大方、これは制御できると踏んだのだろうな。これは害悪にしかならん。ただ壊すだけ壊して、殺すだけ殺して、何も生まない」
 短く王は鼻で笑った。フージャは息を詰めた。クランフェールが激高する。
「なんの話をしている……!?」
「盛大な茶番だったのだろう? 今更だ。かくして何の意味がある。お前か、エルテノーデン。あの猫がこれを仕組んだのか? ありえそうだな。古くさい教義にかぶれた堅物にしては、ずいぶんと思い切ったまねだ」
「王は関係ない!!」
「では何のためにきた!? これをかばう理由はなんだ!? まさかただ助けにきただけか。〈雪〉を呼ぶのを? 〈冬〉をもたらすのを? 害悪にしかならないのにか。すべてを殺すだけなのにか。草も木も土地も建物も、すべて壊すようなのを生かしておくのか!?」
 王は哄笑した。
「ありえない! すべてを道連れの自殺でもしたいのか。ひとりで勝手に死ね。そんなものに巻き込まれるいわれはない」
 どけ、と王は言った。クランフェールが歯?みした隙間から、声を押し出す。
「ジノブット王、俺たちは――」
「どけと言っている!!」
 咆哮のような王の叫びとともに、折れた湾刀が振るわれた。
 ふたりの刃がかみ合おうとしたそのとき、飛び込んできた影があった。頭上から身軽く降って来たと思うと、王とクランフェールの間に割りこみ、クランフェールの剣を受け止める。暗がりに火花が散る。甲高い音が連続して響いたかと思うと、ぱっとクランフェールが飛び退いた。唸るような風切り音が二人の間に走った。
「フージャ、さがれ!」
 シハーブの叱責が飛んだ。フージャが弾かれるようにシハーブを見ると、褐色の腕が素早く弦を弾く。一矢走ったと思ったら、すぐにもう一矢が飛んでいった。暗がりの奥から、矢に至れた男のうめき声が聞こえる。
 シハーブが舌打ちする。
 三矢目を番えた先から男たちが幾人も駆け寄ってくる。数が多い。その装束には見覚えがあった。黄色を基調として黒をさし色としたそれは、ラカンヌのものだ。
 フージャはぎこちなくクランフェールのほうを見やった。
 クランフェールはじっと向かい合っている。王の前に凛然と立つにもその姿もまた見覚えのあるものだった。先ほどフージャたちを拘留しようとしたあの黒豹の女だった。
 だが、先の様子とはまるで変わっている。女の金色の瞳は満月のごとく爛々と輝き、視線だけでクランフェールを貫こうとしているようだ。
「遅かったな」
 王が笑いを滲ませて言った。アギフがひとつ大きく胸を膨らませたあと、ゆっくりと謝罪を口にする。
「申し訳ございません。手際の悪さを恥じ入るばかりです」
「それより状況報告が先だ。今外はどうなってる」
「混乱が起きていて、詳細はまだ……すぐに執政宮へお連れいたします」
「及ばない。ここで十分解決する。あれを殺せばいい」
 王が顎をさしむける。〈雪〉に直に触れたままうずくまっているオルカはびくりと身をすくめさせた。王の目線を追ったアギフが不可解そうに眉をひそめる。
「アギフ、殺せ。邪魔だ」
 その言葉に、黒豹は王に目を走らせた。一瞬、意図を探るように。だがすぐにクランフェールに顔を戻すと、ためらいなく静かにいらえた。
「御意」
 その瞬間、女が弦から放たれた矢のごとくオルカに飛びかかった。フージャが名前を呼ぼうとする前に、鋭い雄叫びが空気を叩き、とっさに音のほうへ顔を向ける。ラカンヌたちが一斉にフージャたちめがけて駆け寄ってきていた。
 シハーブの矢が暗闇を裂いて飛んだ。後ろでは、鋭く鋼のかみ合う音がした。
「昼寝ばかりかと思っていたがそうでもないな、エルテノーデン!」
「そらどうも!」
 一呼吸に足らない時間で間を詰めたアギフの曲刀を、クランフェールが滑り込むようにして弾いたようだった。相当無理をしたのだろう。息が荒いのはとっさに〈雪〉の這っている地面に手をついたからに違いない。
 アギフの腕は休まることなく振るわれる。鞭のしなりにも似た斬撃の嵐に、クランフェールが必死に応戦する。だが無理に入ったせいで体勢が悪く、剣をあわせるごとに押されていっていた。
「オルカ!」
 フージャが叫ぶと、呆然と頭上で交わされる剣戟を見やっていたオルカが肩を跳ねさせた。金色の目がフージャを向く。
 シハーブが舌打ちをして、早口にまくしたてた。
「おい、お前がオルカ回収しろ! とりあえず場所が悪い、ひとまず撤退するぞ! あれは後回しだ!!」
 その言葉の合間にも、シハーブの手は弦を引き絞っている。矢数はもう残りわずかだ。もとよりシハーブが途中でラカンヌから強奪したものだから仕方がない。
 魔石はクランフェールが持っている。オルカに手渡すには時間がなかった。フージャはうなずき、すぐさま駆け出した。その足どりを追って矢が地面に突き刺さる。
「オルカ!」
 アギフがこちらに顔を向けようとするのを、クランフェールが押しとどめた。雄叫びをあげての刺突がアギフの首を狙い、首の皮一枚ほどで間に合った曲刀が剣筋を反らしていく。そのまま間近に近づいたクランフェールはふっと体を沈ませる。そして跳ね上がるようにしてアギフの顎をめがけて掌底うちをしかけた。アギフは身を反らし、腕は空を切った。
 今度は逆に体勢を崩したアギフが飛び退り、距離を稼ごうとするのを、クランフェールの長剣が鋭く追っていく。
「オルカ!」
 次第に近づいてくるオルカに向かって、フージャは叫んだ。
「オルカ、立て! はやく!!」
 オルカは喘いだ。駆け寄ってくるフージャを凝然と見つめたかと思うと、ぐっと唇をかみしめた。震える手を〈雪〉に押しあて、のろのろと立ち上がろうとする。
 フージャの耳の際を、矢が風を裂いて通り過ぎる。痛みはないから、近くを通っただけだろう。だが血が引き潮のように下がったのを感じる。鎌首をもたげそうな恐怖心を踏みつけるように足に力をこめた。
 伸ばした腕が、オルカに触れる。
 肩をつかんだとたん、オルカははっきりと震えた。
「フー、ジャ?」
「時間がないんだ、今はとりあえず二人が時間稼ぎしてくれている間に逃げるぞ。立てるか!?」
 早口にまくしたて、フージャはオルカの腕をとって強引に立たせようとした。その瞬間、オルカは弾かれたようにフージャの手を払いのけた。
 目を見開き、オルカの顔を見やる。
 時間がないのに。苛立った気持ちは、だがその白い顔を見た瞬間にしぼんでいった。かわりに不安に駆られて小さな声で名前を呼ぶ。
 オルカは目を大きく見開いていた。自分の両手を背にまわしてフージャから隠すようにしている。怖がるように。
 もう一度名を呼ばれると視線を外して、何か言いたげに唇を開いた。
 だが結局何も言わずに空気だけ食んだあと、ぎゅっと目をつむって手を前に出す。そうして衣服に何度も手のひらをすりつけた。その手は小刻みに震えている。
 それでなにを落とそうとしているのかなんて、わかりきっていた。
 〈雪〉。
「いま、たつ、から」
 小さな声だった。まわりの剣戟と怒声にかき消されてしまいそうなほどに。
 行き場をうしなった手のひらに、冷風が触れていった。
「フージャっ、何している!! はやく、っそ、主従そろってしつけえな!」
 クランフェールの叫びとともに、またひとつ甲高い音がする。
「褒め言葉と受け取ろう」
「そうかい! っつーか猫野郎といいジノブットは口うるせえ奴ばかりだな!」
「当たり前だ。ジノブットだから、なっ!」
 アギフがまた攻勢に打ち出たようだった。クランフェールの短いうめきを境に、会話のような立ち回る音が聞こえてくる。
 オルカがぎこちなく膝に手をあてて立ち上がろうとしていた。ひとりだけで。フージャの手にはすがらず、生まれたての羊のようなおぼつかなさで腰を上げる。
 パラファトイにいたあの三ヶ月では考えられなかった。
 ――刷り込みだな。低い、岩の割れ目から聞こえるように重々しく、だが優しい声が揶揄したのはいつの頃だったのだろう。投網の整備をしていたときだ。生きた潮の匂い。揺りかごのような波音。陽気で汗ばむ首を海風がさっとなでていったのを覚えている。
 ベサルバトが言ったのはオルカのことだとすぐ気づき、肩をすくめた。港へ、菜園へ、集会所へと顔を出す自分のうしろについてくる足音にはもう慣れていた。嬉しければ軽く、興味を惹かれていればそぞろに、怖がっていれば速まってすぐぴたりと背に張りつく。音が聞こえなければ興味が行き過ぎて迷子になったか、興味が行き過ぎて転んだかのどちらかだ。
 転んだオルカを立たせてやると、とびっきりの笑顔になった。先ほどの泣きっ面が嘘のように変わるから、悪いけれど、いつもおかしかった。
 オルカが自分に懐くのは当然だった。能天気でも、なにも知らない土地に来たのだ。傷つけないと知れば、一番はじめに見知って、一番年の近い自分を親しく思わないはずがない。
 また自分も、オルカの兄代わりになるのは当然だと思っていた。拾ったのは自分。客分として迎え入れる責任を持ったのも自分。だから面倒をみるのは自分の義務だった。統領の息子としてきちんとしていたい、という気持ちもあった。
 そう言うと、巌のような巨人はゆったりと笑った。義務感だけなのか、と問いかけながら、太い指からは考えられないほど繊細な手つきで投網をつくろっていく。ちらっと親友の顔を盗み見れば、からかうような色は見えない。
 少し鼻先をかくと、指から魚と潮の匂いがした。
 雛鳥のようなオルカの行動は少し大げさだった。もう大人の端くれだ。つきまとわれるようなのは子どものようで、最初は落ち着かなかった。
 航海のたびに、オルカの故郷を必死で探していたが、結局は空振りに終わるばかりだった。そんなときに港であっけらかんとした笑顔で手を振るオルカを見れば、無性に腹が立つこともあった。
 あるとき、いつものように追いかけてくる足音が煩わしく思えて仕方なかった。燻る怒りが妙に消えず、帰らなくていいのかこいつ、と内心そんなことを思った。だからといって怒りをぶつけるわけにもいかなかったから、少しだけ頭を冷やしたくてオルカを撒いた。
 ごちゃごちゃした考えにひとまずでも整理をつけた頃には、日は傾いていた。さすがにもうオルカが探していることはないだろう。むしろ姉に泣きついている気がした。
 思わず足取りが重くなる。今更ながらに、子どもじみた逃げを打ったのが恥ずかしかった。それもあんな子どもに対して。統領の息子として、あまりにまだ至らぬことが痛感させられ、口から苦い息がこぼれた。
 そのときだった。何かが突然うしろからぶつかってきた。前のめりになってたたらを踏んだあと、慌てて振り返って驚いた。そこにいたのは夕陽に髪を赤く染めたオルカだったからだ。
 名前をおそるおそる呼んで手を軽く叩いたが、オルカはぎゅっと腕をまわしたまま動かなかった。まさかずっと探していたのだろうか。急に罪悪感で胸が痛んだ。泣いているのかもしれない。もう一度呼ぼうとしたとき、ぱっとオルカの顔があがった。
『フージャ! もう怖くないよ。オルカがちゃんと見つけてあげたから大丈夫!』
 こぼれるような、笑顔だった。
 オルカはずっと探していたのだと言った。きっと迷子になってしまって、心細いだろうと思ったから。ようやく見つけたとき、やっぱり寂しそうだったから、だからぎゅっとしたのだと。
 自分が置いてかれたとは少しも考えていなかった。
 とてもではないが、馬鹿だと思った。オルカの額をはたいて腕を引きはがした。十六年住んだ場所で迷うはずがない。そう言われたオルカは金色の目を瞬かせて小首を傾げたあとに、また顔いっぱいに笑みを咲かせた。
『そっかあ。ならフージャ寂しくなかったのね! よかったあ』
 なにも言わなかったのは呆れたからだ。胸がなにかに押されているせいじゃない。強引にオルカの腕をとって歩き出すと、軽い足音がついてきた。いつもどおりに。
 あのときと同じように、フージャは〈雪〉に座りこむオルカの腕をとった。乱暴に立たせる。驚いたように開かれた目に気づかないふりをして、手を握った。
 前と変わらない。温かい。
「走るぞ!」
 手を引いて走りだす。うしろの足音は乱れている。だがきちんとついてくる。
 一面の〈雪〉のなかでどこへ行けばいいのか検討もつかなかった。道案内のはずのシハーブはいない。テオバルトに至っては姿も見えず、生死さえわからない。だがその心配している暇もない。
 なんでもいい。ひとまず離れてしまうのが先決だ。
 城は幸か不幸か〈雪〉で混乱の最中だ。人が入り乱れて、誰が誰だかわからないことになっているだろう。ふたりくらい紛れるくらいは簡単だ。オルカの見目は目立つから、どこかで外套を手に入れて――。
 思った直後、オルカをつかんでいた手が突然と重くなった。
 何が起こったのかわからなかった。それに引きずられるようにして尻餅をつく。弾かれるように振り返り、胃のあたりが震えた。
 血だ。
 オルカのふくらはぎに赤い線が走り、そこから血がにじみ出ている。
「お、オルカ! オルカ、大丈夫か……!?」
 なんでこんな突然。まさか矢が飛んできたのか。とっさにまわりを見渡して、すぐそばに転がっていたものが目に飛び込んでくる。それは折れた曲刀だった。
 顔をあげたとき、まっすぐに目が合った。距離はある。だがその眼差しは間を越えて強く射抜いてくる。血の香る獣の荒い息を間近に吹きかけられた気がした。
 ジノブット王は、折れた剣を投げつけたために傾いだ体をゆったりと起こした。
 餌をいたぶる顔つきが、だがふと厳しく引き締まった。なんだ、と思う間もなく、自分の体にも異変が駆け抜けた。
 体が重くなる。耐えきれなくなって膝をついたが、むきだしの手だけは〈雪〉に触れないようにした。だが無駄だった。胃の底が氷を押し当てられたように冷え、ひどい吐き気が襲いかかってくる。
 視界のなか、オルカの背中で星のように変な光がまたたいていた。


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