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十四  伸びる女神の腕


 大きく地面が揺すられ、フージャははっと顔をあげた。
 とりかこんでいたラカンヌが驚くように周囲を見やる。並んだ槍の穂先が揺れ、大きく仲間の顔を掠めていった。なんだ、という声がそこかしこであがったが、その動揺を女の声が鋭く打擲した。
「これしきのことで騒ぐな!」
 ラカンヌは一斉に口を閉ざした。ぐっと胸を張り、背筋をただす。とっさのようにシハーブの背もぴんと伸びたのがフージャにはよく見えた。
 その様に黒豹の女は満足げにうなずいた。
「よし、リオン、イヴティカール、サグル。お前らはこいつらを」
 捕獲せよ――おそらくはそう続くはずだったのだろう。
 だがその前に、ふたたび地面が鋭く突き上げられた。先ほどよりずっと大きい。フージャはその場に立っていられず、思わず膝をついてからだを低くした。すると、近づいた地面が大きく震えるのがわかる。さっと見渡せば石壁や柱廊が激しく揺すられ、頭上からはばらばらと壊れた石くずが降り注いでくる。
 自分からざっと血の気が引いていくのがわかった。
(一体何が起こったんだ)
 いや、それ以上に、このままでは壊れてしまう。
 そのとき、フージャの横にうずくまっていたクランフェールが弾かれるように、その場から飛び出した。裂帛の気合いとともに、黒豹の女に向けて剣を走らせる。だがとっさのことでも湾刀で女はそれを弾き返した。
 シハーブの舌打ちが聞こえた――と思った瞬間、猫の獣人は身を低くしたまま、手近なラカンヌの足を払った。地震に気を取られていた男は、隣も巻き込みながらあっけなく体勢を崩す。その男の手から槍をもぎ取ったシハーブは、慌てたように槍を構える同僚たちを薙ぎ払う。
 不意に背後から迫る気配に、フージャのからだもとっさに反応していた。飛び退いた矢先、それまでいた床に鋭く剣先がくいこむ。操るのはフージャといくらも違わない少年だった。彼は無表情のままフージャにふたたび肉薄し、剣を唸らせた。
 身をそらしてかわす。目に風圧がかかった。
 尻餅をつくように倒れこめば、即座に少年が距離を縮める。ぬっと現れた顔めがけて蹴り上げたが、防がれる。フージャはすぐに腕に力をいれて、その場から転がって逃れた。背中から鉄と石がかみ合う音がした。
 すぐさま立ち上がったフージャは、壁を背に荒い息を吐いた。どくどくと血が駆け巡る音が耳鳴りのように聞こえる。
 少年はとんとんと湾刀で肩を叩きながら、少し首を傾げた。不思議そうだった。
 ぱらぱらと砂礫が降り注ぐ。
 すう、と少年が目を細めたとき、少年の背後で悲鳴が上がった。
「――〈雪〉だ!!」
 ざわりと空気が変わった。黒豹をふくめたラカンヌの視線が、一気に三人からそれて人垣を越える。
 フージャの目も思わずつられた。だが突然何かに襟首がつかまれ、引き上げられる。ぐっと首が絞まり息苦しさに手を当てた瞬間に、からだは空を飛んでいた。目を見開いた先で、金色の髪がひらひらと舞っている。
 フージャのからだを引きずりあげていたのはシハーブだった。
 彼は一足飛びにフージャごとラカンヌの取り巻きを飛び越えると、フージャを突き放した。弾けるように叫ぶ。
「走れ!!」
 そうして今にも追いすがろうとしていたラカンヌへ、振り向き様に柄を打ち据える。倒れるラカンヌの後ろから人垣が崩れるのが見えた。その隙間から放たれた矢のようにクランフェールが飛び出してくる。
 フージャはすぐさま走りだした。
 後ろからふたりの足音も聞こえてくる。フージャは気兼ねなく足に力を入れた。
 ジノブットの城は庭が多くを占めている。公的な施設が占める外廷と王の居住する場所である内廷に分かれ、その東側に王の寵姫が住まうハレムがあった。そのハレムを隔離するようアラーヌの兵舎が居並び、その逆の西側にラカンヌの兵舎群が顔を揃えていた。
 オルカの居所はフージャも知っている。ハレムにほど近い、東側の区画にある宮だ。見知らぬ土地だが、海に比べればあてをつけることは簡単だった。まして今は隠れなくてもいい。
 フージャたちの向かう方向から一団が駆けてきた。はっとたたらを踏みかけたフージャたちは、だが彼らがフージャたちに見向きもせず裾をからげて逃げていくのを見やって、足を止めぬまま互いに目をかわしあった。
 男も女も一様に悲鳴をあげて逃げ出していく。
 地面がまた強く揺すられた。
 足をとられかけたフージャが地面に目を走らせたとき、それに気がついた。幾万もの毛虫が背筋を這ったように思った。喉が引きつる。
 いつの間にか足が緩んでいた。その合間に追い越していったクランフェールが、焦ったようにフージャを振り返る。
「おいっ、なにやってんだ! そんな暇」
 声は尻窄みに消えていった。フージャの視線の先に何があるのか気づいたようだった。立ち止まるフージャの傍に近づいたシハーブが、いつものように気安く口笛を吹いてみせる。
「あらまあ……こら、圧巻な風景だね」
 ひょう、と風が吹いた。
 だがそれは常の金色の風ではなく――砕かれた〈雪〉でけぶった白い風だった。一面に広がる庭は椰子の木々で道がつくられ、極彩色だった椰子と柘榴と泉は、割れた地面からのびた白い腕に抱きしめられていた。
「これってお姫様のしわざ?」
 軽やかな足取りでフージャの隣をすり抜けた猫の獣人は、地割れから花開いたような〈雪〉に身をかがめた。地割れと言っても大きくはなく、乾ききった大地に走るひび割れに似ている。
「それは、まだわからない」
 老人ようにしゃがれたフージャの声に、シハーブは口の片端だけを持ちあげた。
「へえ? そう。女神様のうつしみとかいう女の子がいて、でもって王様に狙われてて危機一髪だっていうのにこの大暴走は関係ない、と。粋な結論だねえ」
「そうは言ってねえだろ。わかんねえってだけだ。先走りすんな」
 顔をしかめて吐き捨てるクランフェールに、クラリース、とシハーブは歌うように呼びかけた。だが二人の白眼を見ると、やれやれとでも言いたげに肩をすくめた。〈雪〉から身軽く足を引き、クランフェールの横をすり抜ける。その拍子に軽く騎士の肩を叩いていった。
「んじゃ、そうしときましょ。でもさあ。俺の言ってることが正しかったときはどおすんの」
 乱暴な手で心臓が揺さぶりをかけられた気がして、フージャは息をつめた。クランフェールの咎めだてるような視線さえ気にした風もなく、猫は毛繕いでもするよう悠然と首をまわす。
「てめえ……!」
 クランフェールが詰め寄りかけたとき、フージャはすぐに割って入った。両手で二人を押しとどめるように広げ、シハーブに顔を向ける。
「もし、そうであれば計画を早めるだけです。魔石を使って、オルカのあれを……〈冬〉を消す。今後の行動方針はそれで十分でしょう」
「……魔石が通じなかったらどうするつもり?」
「そのときは」
 躊躇わずに言葉が出てきたのに、その先は行方知れずとなった。
 魔石は確たる証拠があって用いるわけではない。本来ならば場所を確保して、実験をかねて行う予定だったのだ。こういう状況となり、常のオルカに効果があったとしても、今ではどうかわからない。こちらが教えて欲しいくらいなのだ。
 フージャは強く拳を握った。
「……やってみないと、わかりません」
 その先にある選択を見ぬふりをしたくて、声を絞り出す。
 シハーブもクランフェールもそれに何も言わなかった。フージャの心をどれだけ汲んでいるかはわからなかったが、クランフェールが低く行くように声をかけると、シハーブは肩をすくめてその後ろについていった。
 フージャもふたりの背を追った。足に力をこめる。重苦しい考えをその場に置き去りにするように速度をあげた。


 ひび割れた大地から芽吹いた〈雪〉は、瞬く間にその腕を伸ばした。
 生きている蔦のように石畳の隙間から顔をだし、黄色の日干し煉瓦を白く染めあげていく。恐れるラカンヌのひとりが後ずさりすれば、松明の明かりが影を膨らませるように身じろぎした。その跡すら食いつくすよう、〈雪〉は壁にも、絨毯にも、小卓にさえ結晶を凝らせていった。
 浸食は息をひそめるよう静かだった。粉々の硝子を靴で踏みしめたようなパキパキという微かな音だけが、その侵攻の足音だった。
 悲鳴が弾け飛んだ。それを皮切りに人々の間にあった、ねばつくような時間が引き裂かれる。我に返ったラカンヌたちの足音、そして槍がぶつかる音が細波のよう響いた。
 ジノブット王は鋭く舌打ちをして、声の鞭で彼らを打ち据えようとした。
 だが、そのとき足下が強く揺さぶられた。地割れが大蛇のように王の左足に素早く這い寄り、勢いよくそのあぎとを開く。とっさに飛び退いたが、走った亀裂は蜘蛛の巣のよう床を割っていく。
 怒濤のようにラカンヌたちが入り口へ殺到した。仲間の背中にぶつかり、仲間の胸に押し込まれながら、倒れる者にさえ踏みしめ、我先にと建物の外へ逃げ出していく。
「王、お早く……!」
 右腕に〈雨の御子〉を抱えたままのラカンヌが、仲間の波をかきわけ王のそばへ近寄ってきた。王はもう一度舌を弾いてから、巨漢につれられ人波に身を踊らせた。
 一体なにが起こっているというのか、王にはわからなかった。昨年から〈雨〉の軌道がおかしくなっていたとはいえ、このような急激な発生は聞いたこともない。これまでの膨大な歴史を見ても異様な状況ではないか。ジノブットが明け暮れる戦のせいで、歴史の大半を失っているとしても、だ。
 なぜ。どうして。王はラカンヌに身をもまれながら、眉を曇らせた。
 ままならない〈雨の御子〉を従わせるためのデモンストレーションはずだった。なのに、まるでこのタイミングは――。
(あれが、〈冬〉を呼んだかのような)
 胃の底を冷たい手で触られたかのように感じた。ありえぬことだった。そう感じることも、〈雪〉を呼んだと思うこともだ。〈雪〉を操るなどおかしなことだった。決して制御できないものだからこれほどまで〈雪〉は恐れられているのだ。嵐、土石流、そういった自然災害と同じ。ただの自然現象に過ぎないはずだと、自分は思ってきたのではないか。
 神などいない。ただ〈冬の地〉にあるのは、古色蒼然とした妄想の檻。それが人々を搦め捕っているだけに過ぎない。
 そのはずだった。
 だが、薄暗い廊下をラカンヌに守られて通り抜けた先、扉をくぐり抜けて広がった光景に息をのんだ。
 王は蒼白な顔で立ちすくむばかりの臣子たちを押しのけ、前へ出た。たたらを踏む男たちが乱れに気づいて、王に道を譲っていく。とたん、開ける景色に王の目は勢いよく見開かれた。
 離宮の前には広くとられた円形の広場がある。黄色の石畳が敷かれ、三方にのびる道だけが色を違えて白いはずだった。
 しかし、今はすべて白い闇にのみこまれている。
「――なにをした」
 自身でも驚くほどにしゃがれていた。王はゆっくりと後ろをむくと、爛々とした目のままその姿を探した。すぐに見つかった。入り口にほど近いところで、〈雨の御子〉は巨漢の腕に抱えられたままだった。その細い肩が揺れる。
「なにをした!!」
 稲妻の轟きに似た声が王から迸る。〈雨の御子〉は強く身を震わせて、すぐ首を振った。
「しら、オルカ、なにも、なにもしらな」
 王が少し近づくだけで、喉が締め上げられたように彼女の声は途絶える。
 ありえない。耳鳴りのように、身のうちから声がする。彼女が操っている? そんなはずはない。神などいない。断じたのは自分だ。この問いは誤っている。彼女に問うのは無意味だ。
 なのに、なぜだ。偽りだと叫ぶ理性を押しのけて、感情が吠え立てる。〈雪〉に感じる得体の知れない戦慄と同じほどに、あの少女がなにかをしたという確信があった。
 肌に触れていく風が切るように冷たく思える。骨まで凍みてきそうなほどに。それが〈雪〉のせいなのか、湧いてくる感情からなのかわからなかった。
 少しずつ近づいていく少女はあまりにも普通だった。隆々とした筋肉があるわけでも、刃物を持っているわけでもない。ただの街で遊ぶ子どものようでしかない。血の気の引いた顔さえ、脅威になるようなものは何も見いだせなかった。
 その顔が、突然かすんで見えた。
 王が思わず目を覆うと、すぐそばで何かが倒れた。弾かれるように見れば、道をつくっていたラカンヌが〈雪〉の上に崩れている。なにが、と思う間もなく、次々と同じようにラカンヌたちも呻いて膝をつく。えずくように背を丸め、胸のあたりをかきむしりだす。
 そのとき、王のからだにも悪寒が這い上がってきた。からだが重くなる。まるで地面から伸びてきた手が全身に絡みついて、地中に引きずり込もうとするようだった。膝から崩れ落ちそうになるのを、湾刀をさしてこらえる。勝手に荒げていく息をはきだしながら、愕然とした。
 間違いなく、これは〈雪〉に触れたときの症状だった。
 おかしなことだった。直に触れなければこうなるはずはない。靴を通したのかと考えるが、それも奇妙だった。〈雪〉に冒されたものは同じ性質となるが、それにしても早すぎる。皮であっても数時間はかかるはずだ。
 まわりのラカンヌたちは少しでも〈雪〉から逃れようと、入り口から這って逃げていく。だが、しばらく進んだあとは呻いて動けなくなる。二十人ほどは密集していたのに、今では王の近くには誰もいなかった。
 少女を捉えていたラカンヌもまた、仲間と同じように四つん這いになり吐き気をこらえている。その横に少女は立っていた。男たちが毒でも盛られたように倒れていくのに震え、かぶりを振りながら、少しずつ後ずさりしていく。その背が入り口の壁にぶつかり、肩が跳ね上がる。
 だが、それだけだった。
 吐き出した王の息は、震えていた。
 胃を、肺を、目玉を、心臓を。からだのあらゆるところをえぐり出されたとしても、まだ足りないほどの戦きを、王はようやく認めた。
「お前……」
 顔をあげた少女に一歩近づけば、ぱり、と絡みついた〈雪〉が割れて音をたてた。
「なぜ、お前は〈雪〉の影響を受けない……!」
 素足のまま立ちつくす少女が、小さく喘いだ。
 『これ』は一体なんだ。
 この勢いの〈雪〉に直に触れ、なんの異常もきたさない。〈雨〉を司る〈角の神〉の加護とでもいうのか。誰も見たことのない、得体の知れない神の、偏った慈悲だと。
 〈冬の地〉は閉ざされた土地だ。だからこそ物の見方は凝り固まる。人々は〈雪〉がなぜ起こるのか、どうして〈雨〉で溶けるのか、〈雨〉がめぐるのかを、色あせた神話だけで納得してしまう。……自分とて、〈冬の地〉の外へ放浪に出なければ同じだっただろう。
 いや、そうではなかったのかもしれない。今の自分ですら、盲目だったのではないか。自然現象と片づけ、〈雪〉がなぜあるのか、〈雨〉がなぜあるのか考えもしなかった。
 どうして〈冬の地〉だけにこのようなものがあるのか。
「ちが、しらない、オルカ、お、オルカ、何も知らない……!」
 そうして、目の前のこの存在は『なに』なのか。
(殺さねばならない)
 理屈を越えて感じた。恐怖感、厭わしさ。『原初からの刷り込み』のように感じる、生理的な嫌悪感が足を突き動かす。
 心臓が軋みをあげるのをねじ伏せ、嘔吐感を飲み下し、剣を振り上げる。
 いや、と少女の口が動いたように思えた。後ろにさがり、だが巨漢にぶつかって尻餅をつく。足をからげて、這いつくばるようにして逃げていく。
(殺す)
 殺さねば死ぬ。
 都も、国も、世界も、そんなことはどうだってよかった。壊れるなら壊れてしまえばいい。だが、自身を形づくる考えそのものを、揺るがすようなものは見逃せない。
(だから殺す)
 殺さねばならない。
 蛇に似た鬱陶しい死の腕を振り払うよう、足に力をいれて飛びかかった。
 そのとき、弓矢が踏み出した足先に突き刺さった。
 はっとすると、かまいたちのように肉薄してくる人影が目の端に映る。反射的に剣で払い上げる。鋼のかみ合い、耳障りな音をたてた。
 柄を握る腕が軋みをあげる。思ったより〈雪〉に体力を削がれていた。歯を食いしばり、目を見開いて斬りかかってきた男を睨みつける。
 遠く、〈雪〉に冒され色合いを変じた松明の火が、男の目のうちで微かに揺らめいている。底光りするような眼差しだった。
 かすめるように眉間に力がこもるのが見えた。
 キファーフは剣を振りほどく。弾かれたように見せかけ、男が流れのままに再び剣を振り下ろしてくるのを、受け止め、そのまま下に受け流す。と、キファーフの湾刀が突然真っ二つに折れた。
 悲鳴のように高い音を立てて折れた剣を、キファーフはそのまま横薙ぎにした。つば口にまだ残った刃は十分に鋭利に尖っていた。男が仰け反る。追い打ちをかけず、こちらも飛びのいた。男が斜めに剣を振り上げる。
 その剣筋が、ふたりの間に飛びこんだ一矢を粉々にした。落ちた矢柄が軽やかな音をたてる。
 向かい合う男の灰色のガラベーヤが夜風にふくらんだ。ターバンはなく、赤銅の髪が剥きだしだ。日焼けはしているが、これがジノブットではないことは明らかだ。汚れた白羊と黒羊を見間違えるものはいない。
 矢の道筋をさかのぼれば、金髪の猫が矢を番えている。見たことがある、ラカンヌのひとりだ。名はとっさに出てこなかった。その後ろにもう一人、少年がいる。以前のアギフからの報告を鑑みればおそらく彼がパラファトイ人だろう。
 胸が苛立ちで焦げた。
「次から次へと客の絶えない日だ」

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