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十三  白い闇


 牢屋を抜け出し、夜陰に隠れるよう二人は東の宮を目指した。
 夜空に一筋、爪で引っ掻いた痕のような月がうっすらとかかる雲に見え隠れする。深夜を迎えようとする時刻、吹き抜ける風が鳴らす梢の音ばかりが妙に耳につく。
 人気のない中庭を通り抜ければ、白亜の宮が木々の隙間から額を覗かせた。繁茂する草に身をひそめて二人は宮を仰ぐ。夜が更け寝静まった宮からは、明かりはすっかりと落とされていた。
「お前はここにいろ」
 眉をひそめて、まだ言うの、と女は文句を呟いた。ただ移動に心を凝らしたこれまでと違い、中に入れば何があるかはわからない。
「さっき言わなかったけれど……オルカに受け入れてもらえる自信、ある?」
 テオバルトは眉を跳ね上げた。上気した頬で女は悠然と笑う。
「――俺は出来る限りと言ったはずだ」
「でも、出来る限りはしてくれるのでしょう?」
 重ねた時の長さが違いすぎる。口下手の自身より女はひとつどころか、ふたつもみっつも上手のようだった。
 敗北した気分を胸に、エルフを率いて宮に侵入する。ただ足音を殺して歩くことにふたりは腐心した。右に、左に、また左にと角を曲がっていく。
 まるで宮は寝静まったどころか、死に絶えたように静寂を湛えていた。外で絶えず唸っていた風音さえ耳に触れない。わずかに速い心音が、すぐ耳の裏側で鳴っているようだった。
 角を曲がり、あたりを探る。誰もいない。緊張した面持ちのエルフに合図を送り、テオバルトはオルカの居室まで辿り着いた。
 部屋に満ちる木の虚に似た深淵が、体に圧をかけて重くのしかかってきた。夜に慣れた目を凝らせば、朧げな輪郭が浮かび上がってくる。絨毯、棚、小机、円卓、花窓――めまぐるしく過らせて、奥に部屋を認めた。
 早鐘のような心臓が胸郭を叩いていた。その小部屋へ足を向ける。
 だが、向けた足がとっさに凍りついた。
 心音が、ひと時止まった。
 背後のエルフを背にかばおうとする直前、弓弦がしなる音が夜をかき乱した。ぶつかるようにエルフを引き倒せば、頭上を風が鋭く掻ききっていく。矢だった。体を跳ね上がらせたが、湾刀を引き出す前に、もう一矢が唸りをあげ迫っていた。舌打ちをして身を低くして避ける。目の端をかすり、こめかみが滲むように燃えあがる。
 入り乱れる足音が廊下の先から聞こえてくる。続々と現れた松明の炎に、部屋は暖炉のうちのよう赤々と燃えた。
 弓を持つ男から、影が剥がれていく。こぼれた息が、果たして失望だったのか、あるいは予想していたからなのか、テオバルトにはわからなかった。
 苦く笑みをはいた唇に、申し訳ない、と密やかに刻んで、巨漢はみたび矢を番えた。
 高らかに、靴音が鳴り響いた。背後から聞こえる音に驚きはない。テオバルトは常のようにため息をついて、緩やかに顧みた。
 偉丈夫の王は、その緑の目をゆったりと細め、口の端を持ちあげた。


 お前のやることなどよくわかる、と王はそっけなく言い放った。だから面白くない。色のない口調は彼の心うちをよく現していた。外地より来た毛色の違う奴隷を、王はひと時の気まぐれで兵団に組み入れた。ジノブットはもとより獣人が多く、敵も味方もテオバルトより体格も筋力もある者たちばかりだった。死ぬのも死なぬのも一興と放り入れ、気の長い賭けをした王は、だが予想を上回る奴隷の覇気のなさにほとほと飽きが来たようだった。
「そうして俺のものに手を付けようとする。これは由々しき事態だ」
 王は冷めた目で所有物を見下ろし、つま先で顎を持ちあげた。手足を二人掛かりで押さえられ、跪かされたテオバルトはかすむ目で王を見上げた。
「つまらん」
 嗤笑して、王はまたテオバルトの腹を蹴り上げた。
「これはこんなに鳴かぬものだったか。……やはりつまらん」
 そうは思わんか、と王は笑みを含んで、つとテオバルトの後ろへ問いかけた。そこには拘束されたエルフが立たされていた。彼女は青ざめた顔で微かに首を振る。王は肩を揺らして声なく、バッカールに向かい顎をしゃくった。
 少し目を閉じたあと廊下へ姿を消したバッカールは、すぐに戻ってきた。その腕には少女が捕まえられている。夜着に身を包んだ少女は、部屋の異様な様子に即座に気づき、不安げに顔を陰らせていた。
 戸惑うように探った目が拘束されたふたりを見つける。
「……リアお姉さん?」
 顔だけ振り返らせたエルフが安心させるように笑おうとして、失敗する。オルカはバッカールの腕から必死に逃れようとした。
「なんでっ、どうしてリアお姉さんにひどいことしてるの!」
「御子、あなたに危害を加えようとしたからだ」
 王は悠然とうそぶいた。オルカが眦を引き上げ、うそ! と叫びをあげた。
「本当だ。あなたをここから出し、怪しげで危ない場所へ連れこもうとしていた。王として看過はできない。……それがことに、自分の持ち物となれば」
 王はうなだれるテオバルトの肩を蹴りつけた。引きつるように動いた体は、すぐ男たちに捩じり上げられ低く伏せられる。
 オルカははじめそれが誰だかわからなかったようだった。疑うように、お兄さん、と問いかけ、それから嫌がるように首を振った。悲鳴にならない声を迸らせ、何度もテオバルトを呼びかける。
 返事がないことにオルカは濡れた目をあげ、王を睨みつけた。
「なんで! ひどい、ひどいよ!」
「なぜ。もう言ったはず。あともうひとつ付け加えるなら、あなたも悪い。あなたはわたしとの約束を破った。破ったのだから罰が与えられる」
 それこそ神罰のように、とエルフに目配せをして王はうそぶく。
「破ってなんかないよ! オルカ、オルカちゃんとみんなの前で言ったもん! う、嘘だってわかってたけど、ちゃんと言ったもん! オルカ、約束破ってない!」
「いいや。〈雨の御子〉として振る舞う約定だった。だがあなたはわたしの求めた役割から外れた。これを破ったと言わず、何という?」
 靴音を鳴らして、王はエルフの前に立った。オルカは息を引きつらせるよう身を震わせ、強く首を振った。やだ。音になりきれず、唇ばかりが弱々しく形づくる。いやだ、やめて。
 短く王が笑い声をあげた。
 そのとき、死んだように動かなかったテオバルトが跳ね上がった。
 急なことに驚く両隣の男を引き倒し、こめかみに拳を強く打ちつけると、肘を深く男たちの腹にえぐらせる。拘束を逃れたテオバルトは、悶える男から湾刀をもぎとると、王の足を狙って横に走らせた。避けられる。途端、引き倒された男がテオバルトの背後から腕を回し、強い力で首を絞めてくる。その手をテオバルトが掴んだ瞬間、テオバルトの頬に王の蹴りが鋭くあたった。男もろともにテオバルトは床を転がっていった。
「エルテノーデンに感化されたか」
 獰猛に笑んだ王は、獲物をしとめる野生の獣さながらにエルフに向き直った。そうは思わないか。問いかけ、彼は剣を抜いた。
「〈雨の御子〉。よく見ておけ。お前がしたことが、どういうことなのかを」
 殺しはせん、と王は告げた。腕を落とすだけだ、と。
 オルカは紙のように白くさせた顔をゆるゆると振った。すべてを嫌がるように何度も振った。
 王はジノブットらしく、悪辣なほど陽気に笑って剣を引いた。
 夜を、空を、世界を割るように絶叫が響いた。
 甲高い声がオルカの喉から迸り、それに合わせて地面が一度大きく揺すられた。瞠目する人々の体を、ふたたび大地が突き上げる。
 王がさっと目を走らせた足もとで、オルカの足もとから走った亀裂が大きく口を開く。
 黒々とした闇を思ったのは違った。吹き上げて風とともに、白い闇がその腕を瞬く間に伸ばしていく。
 芽吹きのように――〈雪〉が世界を凝らしていた。


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