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十二  作戦開始


 日が地平の彼方に消えて、燐光だけが空の端を燃やしている。あたりに漂う薄暮に、影が三つ浮かび上がっていた。中央にいる金髪の男が、両隣の影に肩をまわして幾つか何事か囁くと、身悶えするようふたつの影は震えてみせる。
 門衛がその姿に顔を顰めた。おいシハーブ、と呼びかける声は、呆れと嫉妬が同じだけ覗いている。またかよと言いたげな顔の門衛に、猫は軽く笑って肩をすくめた。
「悪いねえ。なんなら今度はお前も連れてくか? いつ暇だっけ」
「いいのか、お前の取り分なくなんぞ。……なんだ、ずいぶん骨太な女だな」
「けど肉付きは良い。バッカール並みのガタイならさすがの俺でもねえ」
「ちがいねえ」
 苦笑をし、いいよ通れよ、と門衛は言った。ただしシハーブに自分の休みをしっかりと伝え次のおこぼれには与れるよう約束させる。
「そういやお前、今日決起会だろ」
「んなもん行くわきゃねえだろ。両手の華のがおれにゃ活気づくね」
 さっさとくたばれ、と門を離れられない熊の獣人は唸った。
 門から遠ざかると、骨太な女と言われた人物は、黒の外套の奥でうなり声をあげた。離れていこうとするのをシハーブが腕を絡めて耳元で囁く。クラリス危険だよ、と。
「……誰がクラリスだ」
 骨太な女――いや、クランフェールが低い声で噛みついた。シハーブがにやにやと笑ってその肩を強引に抱きこむと、クランフェールは顔色を変えてシハーブを振り払おうとした。
「はい、右の角から兵士がくるけど」
 クランフェールは瞬時に動きを止めて、憎々しげな眼差しを外套の裏にひっそりと隠した。
 言葉通りに兵士がふたり、角を曲がってきた。シハーブに目を止めると、門衛と同じ表情と言葉でシハーブの振る舞いを揶揄し、シハーブも次の楽しみには呼ぶことを約束して別れる。
「いつもこんなことをされているんですか」
 呆れ調子を隠さず、フージャがヴェールから目を覗かせて問いかける。んー? とシハーブが振り返ろうとすると、クランフェールの肘鉄がまっすぐにシハーブの腹に埋まり、げばっ、とシハーブは蛙のようなうめき声をあげて蹲った。
「くっそ、いつまでこんなもん被ってりゃいいんだよ!」
 苛立たしげに舌打ちをして、クランフェールは鼻から下を覆うヴェールを引き下げた。しかもくそあちぃ、と胸元の布をばさばさと揺すった。
「うあー……クラリス、さすがにやばい……」
「うるせえ! ほんとお前らを信じたのが間違いだった気がするぞ……!」
 シハーブが痛みに浮かんだ額の汗を拭いつつ、呆れてみせる。
「しょうがねえだろ。こっちは手勢が少ないわけだし。今から馬車とか手配するのも一苦労だし、第一そんなので門は入れんし、だったら女の格好して入った方が手間ひま入らずで超簡単。幸いにもおれはそういうのに長けてるしー?」
「もっとましな策があるだろうが! 第一こんなでかい女がどこにいる――!」
「そらお前んとこの国でしょうが。うちはジノブット。人間のが珍しいんだから、それくらいの女は普通にいるよ」
 あーいてー、と腹をさすりながら立ち上がったシハーブが、それに門衛もさっきの奴らも全然疑わなかっただろ、と言えば、クランフェールは顔を引きつらせて歯がみした。だが反論がうまく思いつかなかったようで、外套の上から髪をかきむしる。
「まだるっこしい。さっさと切りこめば早いだろ」
「で、だめだっただろ。クラリスは短気だねえ」
「だれがクラリスだ!」
 フージャが重いため息を吐いてうろんげにシハーブを咎める。
「いい加減にしてください。もうフィーリアさんが待っている頃合いでしょう?」


 重たい音を立てて、錠が開かれた。
 牢の扉を押して開くと、まるでそれを咎めだてるよう錆びた軋みをあげる。昼の名残も地下までは届かず、空気も鉄も肌を引き締めるよう冷たい。右手に持つ手燭の炎ばかりがゆらゆらと熱を持っていた。
 開いた扉を女は静かな目で見ていた。
「出ないのか」
 静かにテオバルトが問うと、少し目を伏せてからゆったりとした歩みで扉をくぐった。
「思ったより、あっけないのね」
 女がぽつりと呟いた。テオバルトは少し目を向けて、すぐに反らした。
「……もうすぐ、シハーブたちが来る。お前はあの騎士とここを離れろ」
「それでオルカは、フージャとあなたたちで会いにいく。……大丈夫、何度も聞いてるから」
 手勢の力量としては、オルカの元へはテオバルトとシハーブが騎士を連れ立っていくのが妥当だった。だが、テオバルトはオルカと離れて久しく、また最後には彼女の不信感を買った身だ。話を素早く運ぶにはフージャが最も適していた。
「パラファトイの船が来るとは聞いたけれど、港まではどうやって?」
「郊外に馬を待機させている。それがあれば、明朝までにはつく」
 ジノブットの王が各地を併呑するにあたり、戦力として最も鍛え上げたのは、ラカンヌの騎馬の手腕だった。その機動力が、結果としてキファーフを『ジノブット』の王に押し上げた。テオバルトもシハーブも、戦場から遠のいたとはいえ馬の扱いは手足の延長に等しかった。
 永久のような時を生きる女は、そういった背景にも通じているようだった。元から馬には乗れたの、と問うあたりでも知れる。
「本格的には〈冬の地〉で学んだ。……故郷は雪深く、それどころじゃない」
「雪? あなた、エルテノーデンから来たの?」
 地中から芽吹くような〈雪〉とは違い、空から降りしきる雪は〈冬の地〉でも一部、主にエルテノーデンでしか見られない。いや、と短く否定すると、怪訝そうな眼差しがそそがれ、テオバルトは少し躊躇ってから答えた。
「……〈冬の地〉の外から来た。名は知らない」
 女は驚いたように目を見開いた。外地と陸続きのジノブットとは違って、エルテノーデンでは珍しいのだろう。初対面かのようにテオバルトの顔を見上げてくる。
「外はどんなところ?」
「変わらん。〈雪〉はないが、自然も厳しい」
「……どんな風に?」
 テオバルトは目を伏せた。過っていくのは、刃のような雪氷の風。口から逃がした息は、頼りなく棚引いては消えていく。山から背丈のある木々をすり抜け吹き下ろしてくるときの、笛のよう高く澄んだ音が思い出された。短い言葉で、色あせて白ばかりが眩い記憶をたどっていく。厳冬にかじかむ指先を、木々に積もる雪の落ちる音を、朝日にひかる足跡のない雪原を。そうして、雪解けに潤む草の匂いと、白い色の日差しがもたらす短い夏を。
 女は調べを耳にするよう、静かに目を細めた。テオバルトが口を閉ざすと、そっと息をこぼす。似ているのね、と初めて聞くような柔らかな音で言った。
「わたしの故郷にも似ている」
 微笑む唇には、少しだけ寂しさが漂っている。王の言葉がふと蘇る。この女もまたその故郷には帰れぬ身なのだと、驚くほどの身近さで実感した。
「名前がわからないのよね」
「……ああ」
「ならいつかエルテノーデンに来ると良いわ。……同じ物はないけれど、きっと記憶は慰められる」
 テオバルトは慰めを求めてはいなかった。だが、夢を見るように女がたどるエルテノーデンの姿は慈しみに満ちる風景をしていた。
 眼前に今にも広がりそうな深い森の景色に、テオバルトは目を細めた。
「そうだな。見てみたい」
 肌が吸いあげた太陽は、きっと残り続ける。決して風景に同化はできないだろうけれど。
 エルフがまたも驚くよう目を見開いているのに気づき、何事かと眉をひそめたテオバルトは、驚いた、というエルフの呟きを耳にする。
「あなた、笑えるのね」
 より深まった眉間の皺に、エルフが朗らかに笑い声をあげた。反論をしようとした唇が、何とはなしにその笑みに行き場をなくす。蝋燭の炎が勢いを増したのか、漂っていた冷たさが遠のいているように思われた。
「……あまり大きな声を出すな。すぐ、シハーブが来るはずだ」


 宮の近くまで進行したシハーブは、警邏の兵をやり過ごしながら眉を顰めた。
 暗がりに溶けていく背を見送り、クランフェールがシハーブに声をかける。号令に駆け出しかけたフージャが動かぬシハーブを不審げに振り返り、どうしたのかと尋ねてきた。
「なんかおかしい」
 さっと身構えあたりを探るクランフェールに、シハーブは首を振った。
「違う、逆だ。人がいない。いや、少なすぎるってだけか?」
「お前から聞いてた警邏の様子と変わらないように見えるが?」
 ふむ、とシハーブはこめかみを掻いた。確かに事実だ。だが、あまりにも判を押したような、巡回の兵士しか姿を見かけないのは、どうもおかしい。
「人が少ないのは、宴のせいじゃ」
 フージャが言うのは最もだ。戦に際し、王は城仕え、ことに近衛兵も兼ねているラカンヌたちに宴席をもうけるのが常だった。今夜、東の下仕への一画で、また西のラカンヌの宿舎ではより盛大な宴が繰り広げられているはずだ。オルカの演説に勢いをくじかれた王は、無理にでも戦への熱を高めようと、いつにも増して早い宴の開催を宣したのだ。
 だが、それにしても少なさ過ぎる。稀なる幸運と捉えられないのは、穿ち過ぎなのか。
「おい、どうすんだよ」
 テオバルトが予測した刻限はもう目前に迫っている。
 しかし――項をちりちりと焦がすようなざわめきに、シハーブは目を瞑れなかった。
「変更だ。違う道を取る。一度東にまわる道を」
 クランフェールを追い越して柱廊を渡ろうとしたシハーブは、暗がりの奥に黒々とした影を見て取り、息を止めた。うごめくのは人の頭。だが、シハーブの心臓を捩じり上げたのは他でもない、その人々の前に立つ、大柄な女の姿だった。
 まじかよ、と引きつった笑みがこぼれる。
 湾刀を肩に担いで、黒豹の女はあでやかに、獰猛に牙をひらめかせた。シハーブはそれが敵に見せる、ラカンヌの長アギフの喜びの仕草だと知っていた。
「お前は相も変わらず、規則を守らず、王を尊ばず、そうして女遊びが絶えないな」


 蝋燭がすでに尽きかけようとしていた。遅い、と舌打ちをするテオバルトに、エルフが怖々とした目を向ける。
「何かあったのではないの?」
 テオバルトは眉をひそめてその言葉を受け入れた。何かあったのだ、それも予想外の事態が。そうであるならば、どうするべきか。一旦手を引いて、体勢を立て直すべきかとも思ったが、これ以上の好機が巡ってくるとは思えなかった。
 逃せばテオバルトたちは戦に駆り出され、あの騎士は祖国のため戻らなくてならず、数年はジノブットに入国は出来ない。そうしてオルカは口をつぐまされたまま戦の旗頭とされるだろう。
 心を踏みにじるように。
 エルフはより効果的に使われる。王の心証を著しく害したあの演説以来、テオバルトには王の激情が、器に満ち満ちた水のように感じられて仕方がなかった。あと一滴でも落ちれば、容易に決壊する。そのときエルフに何がもたらされるか、テオバルトにはありありと思い描けた。
「――このまま、〈雨の御子〉を奪取する」
「……ひとりで?」
 テオバルトがそっけなく頷くと、激しく首を振った。
「だめよ、だめ! ――なら、わたしも行く」
「足手まといだ。お前は騎士を待て」
「いつまでも来なかったら? そうしてまた牢屋に入れられて、オルカを呼び出す道具にされたらどうするの? 自惚れではないと思ってるけど、オルカはきっとわたしを見棄てられない」
 至言だった。些細な交流にさえ心を預ける少女が、親しいエルフを、ことに自分が理由で被害に遭うのを受け入れられるはずがない。テオバルトは苦々しく顔を背けた。
「何かあったらどうする」
「今更? 十分『何か』あっているわ。違う?」
「怪我をする」
「しないように気をつける」
「不可抗力なら」
「くどい」
 ぴしゃりとはねつけられ、テオバルトは小さく舌打ちをした。
「出来る限りのことだけするわ。……だからお願い」
 縋る声に、テオバルトは重く、深く、ため息を吐いた。
 出来る限り、と呟く。出来る限りは、守る。呟きを落として背を向けたテオバルトに、女の朗らかな声がかかった。
「それは、とても心強いわ。――ありがとう」


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