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一   三国会議


 〈冬の地〉のほぼ中央、三国に囲まれた峻嶮な峰は、あたかも天を衝く角のようである。灰色の岩が剥き出しの威容は、三つの国いずれの地を踏んでも目にすることができる。
 伝承に曰く。そして真実、そこは神が降り立ち住まう神の地だ。加護を与えるその神の名を〈角の主〉。尊き、癒しの雨降らす慈悲の神。
 今こそそれなりに齢を重ねたが、当時は若い男神だった。その神がこの地を自らの居処としたには、わけがある。
 ――この地にはそもそも、女神が座っていた。

 旋律を作り六弦を弾く指は、優美に細いが男の物だ。
 緩やかに波打つ銀の髪が強風に靡く。弦を弾いた音は攫われて聞こえなくなる。青年は聖らかな峰の一角に建てられた建物の露台の上で座していた。床に円座を敷き胡坐を掻いて、その上で楽器を抱えている。
 瞳と同じ品のよい紫色に染められた上衣は真新しく、色糸と銀糸の刺繍が施された値の張る物だ。その姿は貴族か宮仕えの楽師のようだったが――彼の血筋は確かに貴いが、それは階級の枠組みを超えており、仕える先は神だった。彼の額には白く美しい角がある。
 〈角の主〉に選ばれ仕える一族〈角の民〉の若者は、もう一度と同じ旋律を辿りながら青く晴れ渡った天を仰いだ。
 彼は暫し神仕えとは別の任を与えられこの地の外へと赴いていたが、一年過ぎてようやく帰還が叶い、新品の衣を下ろすに至った身だ。とはいえ、元の生活に戻ったわけではない。彼の生活は実のところ、大分様変わりしていた。
 楽の音はかつての神の功績や隠された昔話を伝えるものではない。真新しい歌と旋律、作りたてでまだ馴染まぬそれを、繰り返し。
 時代は移ったのだ。
「ティーエお兄、ちゃーん!」
「――はい、なんでしょう、オルカ」
 高く呼ぶ少女の声に、青年は弦を爪弾く手を止めて振り返った。ティーエとは彼の名で、応じ呼び返したオルカとは、この土地の元来の神、〈冬の女神〉の力を持つ少女の名前だ。〈女神〉と共に長く秘された存在であったが――〈冬の地〉の動乱を経て、今は現人神、冬の御子と呼ばれるようになった。
 外で何人もの「お兄ちゃん」「お兄さん」に会ってきた彼女は、赤子の頃からの世話役だった彼のこともいちいち名前を付けて呼ぶようになった。特に今はこの場所に外部の者も出入りすることになったので、間違えないようにとの癖付らしい。今日などは叫んだから、吐息の配分を誤って途中で一度途切れた。
 そして屋内に続く扉、開け放たれたそこから現れる、白い髪に白い衣服の姿。齢十三になるが、その特異性の為か年の割には幼く無邪気で、その見目と力を覗けばまったく、御子様らしくはない。
「味見!」
 料理用の前掛けをつけた彼女は、ぱたぱたと軽い足音でティーエに寄り、ずいと小皿を差し出した。その上には一切れ、薄茶色い何かが載っている。
 断面に細かな気泡が見えるそれは、〈冬の地〉の島国パラファトイの菓子――蒸しパンだった。食文化はエルテノーデンやジノブットに寄り、保存の効く硬めのパンか、すぐに焼ける無発酵の物ばかり食べる〈角の民〉には馴染みが薄い品だ。
 ほとんど菓子と言ってよく、卵も砂糖も入っている。いくら御子様の頼みと言えど、これらの材料がこんな所までまともに運ばれてくるのは国が豊かな証拠だった。
 ティーエは複雑な表情でちらとオルカの顔も見やってから、蒸しパンに手を伸ばした。
 持っても齧っても柔らかく、けれどみっしりと詰まり、風味がよくふうわりとして甘い。味としては問題ない。此処で生まれ育った彼からすれば、子供の頃でさえ食べたことがない、不思議と優しい心地のする食べ物だった。
 こうして食べるのは二度目だが、恐らく問題なくできているのだろう。判断して、一口を飲みこんだ彼は頷いた。
「美味しいですよ」
 途端、オルカの笑みが深まる。随分得意気だ。それに溜息を吐いたティーエは、二口目は口に入れないまま口を動かした。
「オルカ。他にも沢山やることがあるでしょう。皆さんでお茶をするのはお勤めの後、一番最後です。つまり後回しにしてください。いくら知った顔が多いとはいえ、貴女は」
「お客さんのおもてなしが一番大事なのよ!」
 昔からの懇々とした説教も笑顔で聞いて途中で遮るのは、反発ではない。逆に教えて言い聞かせるような調子だ。ぽかんとしたティーエに、空いた皿を胸の前で弄びながら、どうしても引っ込まない笑みで少女は続けた。
「ふふ、前は角様のお客さんだったけど、今はオルカのお客さんでもあるから。嬉しいのよ」
 土地の民草が、土地神を詣でる。
 それは多くの国や町村、土地にとって極々当たり前のことだ。しかし、終わりを齎す女神、嘆き悲しみを生む存在として嫌われ神であった〈冬の女神〉にとっては、それは無縁のこと。ことだった。
 ティーエはゆっくりと瞬き、立ち上がろうとして、手に残っていた菓子に気づく。二口目、三口目、と上品にゆっくりと食べ、パンと手を払ってから改めて立ち上がる。
 〈角の地〉から行方知れずになったときよりも少し成長した少女の顔は、幸福な微笑みだ。恐らくは今、件の女神も同じ顔をしている。長らく泣き暮らし、もう一柱の神が現れようやく人を苦しめずに済むと安堵した微笑した女神は、今満面の笑みだ。
「なかなか立派な女性、女神様になりましたね。ですがそれは屁理屈です。身嗜みや出迎えも持て成しのうちですよ。……髪も結い上げてもらいなさい。頂いた素敵な飾りがあるでしょう」
 見下ろし、ティーエは毅然とした態度で言い返す。そうしながら空いた手でオルカの肩を撫で、背を押すようにして促した。
「うん! あれすごく綺麗だよね。お兄ちゃんもつけたら?」
 返事は聞き分けよく、元気よく。他にも楽しいことを思い出した彼女は輝く金の瞳で、雲のようにふわりとした自身の白い物とは少々違う、光沢のはっきりとする銀髪を見た。今は風の為に解れているが、ただでも輝くその色に飾りをつければもっとキラキラして素敵だと考えている。が、ティーエの反応は鈍い。
 話題にした髪飾りは花を象った、少女に似合いの女物だ。他にも多く届いているがどれもこれも令嬢用の物で、いくら優男の彼と言えど、男が身に着けるには少々厳しい。
「貴女への贈り物ですし……花はちょっと女々しいですね……」
「メメシイって?」
 独り言にすぐ訊き返した子供の声に、ふ、とティーエの頬が緩む。彼女は成長はしたけれど勉強もまだまだ必要で、世話役の仕事は多く残っているらしい。その辺りは変わったようで変わっていない。けれど、こんなに穏やかな心地でいるのはいつぶりだろうか。
 時代は移った。――と、ティーエは思う。この少女が動かした。

 〈角の主〉の神殿、貢物を運び入れる為に使われていた部屋の一つは、所謂会議室へと姿を変えていた。火の粉を散らす松明が壁に掲げられ、用意された質素な円卓と座席を照らす。飾りの類は掲げられる旗さえもなく、これだけあれば十分、という状態だ。
 既に、各々最上級の礼装で身を固めた三国の代表が揃っている。
 青染めの衣、丁寧な刺繍の飾りや頭巾を頭につけているのが、島国パラファトイ。人族と巨人族、それぞれの統領家の世継ぎであるフージャ・サガイとベサルバト・スルン。
 裾を引くほどの長いマントを羽織って白銀のブローチで留め、新緑の葉の如き軍装を覗かせているのはエルテノーデン。蜥蜴の姿をした外交担当ジル・リザーブ。
 被り物と長衣、たっぷりとした白布の所々を朱色の紐と金の飾りで留めている最後の一人がジノブット。鷲頭の獣人、王妹の夫君であり大臣職も務めるラジムード。
 僅か四人、最低限の代表として居並んだ彼らの傍らに連れてきた護衛の姿は無い。この場は誰も刃を持たない神前だからだ。皆、別の部屋に控えている。
 既に挨拶を済ませた彼らは口を閉じて黙り込んでいた。空気は、それぞれに予想していたほど緊張していない。彼らはそれぞれに国を負い、思惑もそれぞれにあるが――多少の反感を抱いていたとして、互いに敵意を持っている者はいないようだと、それぞれに悟っていた。
 ぱちん、と一つの火が大きく爆ぜて音を立てたのを合図にしたかのように、通路の奥から数人分の、些細な足音が近づいてくる。誰からともなく四人が立ち上がり出迎えに並ぶうちに、〈角の主〉の使者であることを示す額の角を晒した古老たちが現れ――するり、衣擦れを立てて身を横に避けた老爺の影から、御子の姿が覗く。
 息を呑んだ三つの国の使者は、それぞれ、自国の最敬礼の姿勢をとった。
「皆様、よくぞ参られました」
 高い、はっきりとした娘の声が労う。金の双眸が代表たちを見つめている。
 オルカの特徴的な白の髪は肩を過ぎるほどに伸ばされ、後頭部で一つに纏められていた。三国で巡り合った女たち――特にエファヴィとフィーリアの影響で、幾分大人びた印象を周囲に与える。引き立てるように、小さな耳の上には真珠を飾った銀細工の花が咲いている。パラファトイ産の真珠をエルテノーデンの王室細工師が仕立てた一級品だ。
 そのように飾られているのは、頭だけではなかった。
 上質な綿織物で仕立てられた白の貫頭衣を締める黄花染めの帯は以前と同じくツァマルが用意した物。柔らかな緑の宝石をいくつか飾った銀の首飾りはエルテノーデン王からの贈り物で、どことなく髪飾りとも似た可憐な雰囲気がある。肩から下げる金糸銀糸で刺繍を施した帯と、揃いの意匠の布靴はジノブットからの献上品だ。
 現人神――冬の女神の現身オルカは、〈冬の地〉三国で作られた衣類装飾で着飾っていた。それぞれに違う文化の中育まれた品々は不思議と一つに馴染み、神秘的な少女を美しく、厳かに見せている。
 きゅ、と体の前で握られた手、袖口に飾り気のない貝細工が覗いているのを、顔を上げたフージャは見つけた。
「〈冬の女神〉の御子として、お礼を申し上げます。どうかこの地、三つの国、すべてによくなるよう、力を尽くして参りましょう」
 小さく血色のよい唇が音を紡ぎ、かつてのジノブットでの宣言よりも落ち着いた調子でそれだけを言いきると隣の古老が控えめに杖で床を打った。
「この地は〈冬の地〉。名のとおり、〈冬の女神〉様の守護地でございます。其処に〈角の主〉が降臨なされ、加護を与えたことは偽りではございませんが――女神様のことを秘し続けて千年、このように娘の姿をとって現われたのも啓示に違いありませぬ」
 歳を重ねた皺を見せる彼は〈角の地〉の代表だ。オルカよりも慣れた調子で、低い声で朗々と語った。
「また、この御子が三つの国を渡り、貴方たちをこのように呼び寄せることとなったのも」
 三国会議、と称されたこの会合は、オルカによって明るみになった〈女神〉の問題を話し合い、ひいては〈冬の地〉の未来を決めていく為に催されたものだった。
 三つの国は、〈冬の地〉として一つに纏まらねばならない。そう、皆が考えたのだ。〈角の民〉――その主も。
「〈冬の地〉がどうあるべきか、共に考えて頂きたい。これは〈女神〉様と、我らが〈主〉様からの願いでございます」
 古老は深々と頭を下げた。慇懃な態度ながら、そのただ人ならざる者の証である角を周囲に示すようでもあった。
 オルカが下がり、〈角の民〉も一人の代表を残して去る。そうして会議は始まった。混乱を防ぐべく最低の人数で集められた彼らのうち、最初に口を開いたのはエルテノーデンだった。国の中でも一部とはいえ、元より女神の存在を知り更には信仰していた彼らの意思は、当然決まっているようだ。
「まず、すべての民が知るべきです。〈冬の女神〉様の真実を。そして〈角の主〉と同じように、祀るべきだ」
「〈冬〉への恐れは根深い。易々受け入れられるものではあるまい。死や病を拝するのは難い」
 三国揃い女神を祀るべし。それに対し、鷲頭が静かに反論する。
 ジノブット王より代表を任ぜられたこの男、軍人上がりで自国でもかなりの権力を持っているが、彼の王と違いその気性は穏やかだ。声音も落ち着き、時々目を細め、よくよく考える素振りが見られた。
 パラファトイ代表――フージャは、統領の跡継ぎに相応しい凛とした面持ちで構え、両者の主張と態度を分析した。隣のベサルバトは黙っている。先に発言するのはフージャであると、二人の内で取り決めていた。
「されど皆、この地から出て行かない。〈冬の地〉を離れないのならば、それは祭祀に繋がります……否、祭祀せねばなるまい」
「それは既に信仰している者の物言いだ。我々は今まで知らず、崇めずに来たのだ。信仰せよと言って終わるほど、単純ではあるまい。我々でさえ戸惑っている」
 変化はすぐ。エルテノーデンとジノブット、相反する両者の主張に力が籠り、幾分の熱を帯びた。そこでフージャは息を吸う。
「同感です」
 一際静かに落ち着き払い、しかし響くように努めて声を発する。二つの声の合間を縫ったそれは彼の目論見どおりに静寂を取り戻させた。蜥蜴と鷲の眼差しが、この場で一番の若輩を向く。黙って見守る〈角の民〉の目も彼へと動いた。
「お二方の意見は両方とも納得できる。ジノブットの御方も、〈女神〉の祭祀に真っ向から反対というわけではない――必要があるとお考えのようだ。つまるところ、三国は皆〈女神〉を尊ぶことを選ぶ。我々が考えねばならないのは方法でしょう」
 注目を集めたそこで、彼は己の主張を差し込んだ。青い瞳でじっと人々を見返して反応を探りつつ、どちらも否定しない言葉はまだ続く。
「知らぬ者に伝える言葉が必要です。〈冬〉と〈雪〉は恐ろしいが、〈女神〉はこの地に生きる者に対し敵ではなく、〈角の主〉様と同じく、この地を庇護している――と。そのことを踏まえ、我々は喧伝して行かなければならない」
 彼は最も若いが、統領の子で、船長で、〈角の地〉礼拝の指揮でもあった。場数は年齢に比例しない。またこの会議までは期間があった。まるで議長の如く、しかし柔和に振る舞う。
 代表を任された以上、ジノブットでの話し合いのようにはいかぬ。との確固たる意志が、双眸には宿っていた、
「〈冬の女神〉様の伝説だけではなく――」
「共に、どう考えるべきかを」
 ふむ、と落ち着きを取り戻し頷いたジルの呟きをフージャが継ぐ。少なくともエルテノーデンは、パラファトイを自身の味方に近いと見做したようだ。
 パラファトイが一人多い人数比もあり、そうなると立場が悪いのがジノブットの代表だ。フージャはラジムードを伺うように視線を送り機嫌も取りに行った。今のはジノブットの意見を推したのだ、と。〈冬の地〉を海路で繋ぎ三国を回す、パラファトイらしい仕事ともいえる。ラジムードは鷹揚に頷いて、また考える素振りを見せた。
 議題は絞られたが、そうすると今度は沈黙が降りた。これまでは忌まわしいばかりだった〈冬〉をどのようによきものとするか、容易ではないことへの思考の間だ。静かなその内、頃合いを見て今度はベサルバトが口を開く。
「終わりを、……死や、それに繋がる力を司るのは確かに〈女神〉だ。だが、こうも考えられるのではありませんかな。戦や病を終わらせるのもまた彼女の力。終わりがなければ、死がなければ我々はこれほどまでに生きることができるのか」
 大岩の如き巨人の発言は考えながらで、その図体に見合わず気弱な調子で響いた。無論、彼は臆したのではない。固まりかけた場を動かし、発言を引き出すことこそ目的だ。
「いかにも。始まったからには終わりがある、対の力です。大いなる力。我々を引き、導く力であると言えましょう。世に在る多くの神々の中でも、〈女神〉は一際に古く、力を持った存在なのです――……」
 それを見て取ったジルは、ジノブットが何かを言う前にと追従した。このことに関しては、元より〈女神〉を拝していただけに、発言の材料は多くあった。
 議論が再開し、〈冬〉と〈雪〉をどうとらえるべきか、意見が出ては潰えていく。〈角の地〉でこれほど〈冬〉について肯定的に論じられるとは、これまででは考えられないことだった。
 途中、〈角の民〉の古老の手によって、木杯に満たした水が差しだされた。一時落ち着いたそこで、居住まいを正して口を開いたのはラジムードだった。
「……実のところ、〈雪〉の話を具体的にするのは、あまり賢いとは言えぬのではないかな。なんとも、体に合わぬ。羽の膨らむ心地がする。……この事に関しては、エルテノーデン、貴殿らも変わらないのだろうか」
「〈冬〉の力は、そういうものです。それほどまでの力である為に、我々はなお畏まり、その崇拝を王と一部の者だけの、いわば特権としたのです」
 生理的嫌悪。死を忌避すべく動く、本能による、〈冬〉への禁忌。こればかりはどうにも拭いがたい。それは三国の代表、全員が揃って抱く見解だった。エルテノーデンの者でさえ、恐れが無いわけではない。
 再び、一時の沈黙。フージャも考えながら出方を待った。ベサルバトに目配せする。
「こういうのはどうであろう」
 次に口を開いたのも、ジノブットだった。
「ここが呪われた地とされて外からの敵が寄りつかぬなら、それも加護だ。東の国は長く土地争いの戦いが続いているが、この地は内乱を別にして、戦に晒されたことは一度もない」
「ジノブットがそれを申すとは」
 肯定、好意的な意見だ。ジルは揶揄したが、否定、拒否というわけではなく、ただの諧謔のようだった。鷲頭も笑んで居る。エルテノーデンとジノブットはこれくらいのやりとりのほうが、むしろ安心するようだ。
 これをきっかけとし、パラファトイは押した。
「しかしなかなか上手い弁ではないかな。詭弁というわけでもない」
「そして〈角の主〉様が〈女神〉を庇護している時点で、我々への害は少ない。存在をよしとする、材料になり得ます」
 ベサルバトが相槌を打ち、フージャが分析を続ける。議論は調和に向かい始めていた。
 〈冬の地〉で暮らしていく以上、〈雨〉の恩恵無しには居られない。そして――〈角の主〉が〈冬の女神〉を庇護している構図は、三国の上層全員が理解した後だ。〈冬の女神〉を祀ることは、〈角の主〉に阿ること。そう利益の面で考えている者も、それぞれの国には勿論いた。そこを匂わせる。
 〈冬〉を祀って〈雪〉がつくなら大問題だが、実際には〈雨〉が降る。その限りは内心がどうであれ、〈冬の女神〉を容認したとして問題はない。そこを、民にも感じさせる必要があった。まず実利を。信仰ではなく、納得を。
「残りは――〈冬〉をどう考えるかは、後からついてくるでしょう。御子の姿を見れば考えが変わる者が多いことは、我々でも実証済みです」
 フージャは意気込んで頷き――少し、年相応の顔も覗かせて、おどけて見せた。

「よお、フージャ、お疲れさん」
 神殿の庭――といっても木や花が植わり整えられているわけではなく、林へと続く緑のある空間で少々気を抜いていたパラファトイ代表は、声をかけられて間を持ち、ゆるりと振り向いた。
 あの、息の詰まるような少数での会議でずっと相対していたエルテノーデンとジノブットの衣装の一揃いが、そこには居た。
 クランフェールとテオバルトである。護衛、随伴が職務である二人は代表に比べて装飾などは少ないが、ぴしりとした礼装であり、実に見栄えがする。
「お久しぶりです。……お二人とも――エルテノーデンとジノブットの使節は向こうに居るかと思いますが」
 フージャはにこりと笑って、建物の中を示した。
 会議がどうにか一段落して、今は言うなれば休憩、自由時間だった。神殿にあって緩く寛ぐわけにはいかないが、話し合いの他にも元々と同じように礼拝などの儀式もついてくる以上、まるきり気を詰めているわけにもいかない。
 ちらと示された方向を窺ったテオバルトは緩く首を振り、フージャに歩み寄る。クランフェールも割に軽い足取りでそれに続いた。そうして並ぶと、フージャは誰よりも背が低く、少年らしさが際立った。凄みはまるで感じられず、テオバルトが付いてきた王の義弟や、ちらと見えたエルテノーデンの外交代表と並ぶのは異常とも、彼には思えた。
「迎えに来たのではない。まだ不要らしいからな」
 勿論、下手をすれば侮辱ととられる発言などする気も起きず、口から出たのは単純な否定だったが。
「そもそも、角の地で刃傷沙汰はなあ。ないだろ。お前の顔見に来たんだよ。駄弁りにっていうか――会議どうだった? っつー分かりやすくて正直なところは、お前くらいからしか聞けないからな」
「エルテノーデンよりパラファトイに与するとは。……思いの外順調ですよ。もっと荒れるかと思ったんですが」
 短い言葉に同調するクランフェールが数少なく許された武器である短剣を叩いて、ニヤリと笑みを浮かべて見せる。すると、フージャは大げさに肩を落として冗談を挟み、仕方ないなという調子で応じる。
「でも、やっぱり〈冬〉や〈雪〉は怖いですから、オルカを認めようにもそういう話ばかりになりがちで。……俺だってまだ〈冬〉はおぞましいんです。オルカを助けたあの日のことなんて、まだ夢に見る。〈雪〉に呑まれる感じがした」
 何があっても受け入れる態勢でいるのはエルテノーデンだけだ、とフージャは思う。彼自身も、今は礼拝船の船員たちの元へと戻っている無二の友ベサルバトも、オルカのことは大事に思えど〈冬〉を崇めるにはまだ随分遠い。
 それだけの力で、身に沁み込んだ感情だ。オルカと家族として過ごした日々、〈冬〉だとしてもと決意して助け出した日々がなければ、今この場所にさえ居ないかもしれない。
「俺はよ、〈冬〉は俺たちを苦しめるだけのもんだと思ってた。だからうちの王サマがあの子をそれだって分かってて連れ込んだって言ったときは……正直頭おかしいのかと思ったぜ」
 エルテノーデンはそうでもなかろうとフージャの視線はクランフェールに向いたが、その考えはあっさり、直後に裏切られた。そしてはっとした。確かにそれであの時、フージャはクランフェールを味方につけることができたのだ。
 彼は貴族で騎士の身だが、女神のことを知らない身だった。とするとフージャの思う以上に女神信者は少なく、エルテノーデン代表の好意も彼の国内においても少数側のものだ。
 オルカにとって〈冬の地〉は、まだ冷たい土地なのだ。
「今でもまあ、ちょっと思ってるっつーか。まだ納得はしきれねぇ。けどなんとなく、――っあー。なんつーかなぁ」
 少し暗く沈んだ気持ちを掬い上げるように軽い声音が続き、フージャは瞬いた。困っているが世話焼きらしい、仲間として行動していた時も覚えのある表情に、フージャはふっと笑いを零す。そうだ、とまた思い直す。
「皆、なんとなく分かってます。だからこうして話し合いの場が持てたんだ」
 その現状でも、三つの国それぞれにオルカを愛する者が居る。そして先程会議の場でも言ったとおり、彼には少々の自信があった。
「エルテノーデン王も、〈角の主〉様も、〈冬〉を抱えているつもりではなかった。……俺だって、そうしてオルカを家に置く気にはなれません。でも〈冬〉じゃなくて、〈冬の女神〉。オルカなんだって知ったから」
「身内のようなものということか」
 恐ろしい〈冬〉は、恐ろしい姿をしていない。そう続けたフージャの言葉に言ったのは、クランフェールではなかった。
 それまで黙っていたテオバルトは、揃って己を向いたフージャとクランフェールを見返し、何事も無いかのように瞬いてからもう一度口を開いた。
「病に罹った娘が居て、他への感染を避ける為に捨てるのが最善だと思っても、容易くそうできる親などいない。この土地の民も、あの娘に対してそうだ。それが女神ゆえなのかは分からないが」
 言い終え、すん、と息を吸うと、ジノブットより湿り気を帯びた草の匂いがする。初めて訪れる神の領域は、その神秘性よりも単純にそうした点で彼を新鮮な気持ちにさせた。
 テオバルトが初めて目の当りにした「神」はオルカだ。崇拝、祭祀、宗教というよりもその考えの方がしっくりときた。彼は奴隷だが、生まれながらではない。身内――家族というものはよくよく知っていた。実の妹にオルカを重ねたことを、誰にも言わないが己では認めていた。
 オルカは女神だが、幼気な少女だ。そこに〈雪〉が付いてくるに過ぎない。
「……なんつーヘビーな喩えなんだ」
「そもそもが重い事柄だろう。……――少し調べた。外の、他の地の神のことを」
 クランフェールが苦く笑うが、まるで気にした風もない。ふと息を吐いたテオバルトは二人の内どちらかが会話を再開する前の僅かな逡巡の後、また語り始めた。言葉少なな彼には珍しいことだったが、その程度には彼もこの事柄に対し熱心だった。
 フージャとクランフェール、二人は予想外の話題に少し驚いた後、真面目な面持ちとなりその続きを待った。
「余所には、素晴らしい力を持ち、その土地を潤しはするが……その土地の民を好まない神も居るらしい。実りを人に与えたがらず、むしろ手に入れられないように独占するという。それだけならまだしも傲慢な性質で、祈りを絶やすと天罰を齎し――何年も祈られ続けて、ようやく気紛れに、お零れを与えるのだそうだ」
 他人に聞かせ慣れぬ語り口は実に鈍いが、要点だけは抑えていた。何を言わんとしてるのかは、二人には十分だった。
 二人は他の土地の神話など、聞いたことがなかった。その中身に、自然表情は渋くなる。
「なんていうかちょっと、腹立ちますね」
「ちょっとか? 俺かなーりイラッとしたぞ」
 世の中には理不尽なことも多くある。それを誰もが分かっているが、淡々と受け入れられるかは別問題だ。
 二人の同意を得られて、テオバルトは内心安堵した。そもそも、奴隷の立場で諦観のある彼でさえ許容し損ねた辺り、他人が受け入れられるわけもないのだが。
「それを思えば俺は、そんな神を祀るよりはこちらに好意のある女神を祀るほうが、いいように思えた」
「ふーん。……アンタもっと打算的な人かと思ってたけど、けっこう人情味あるな」
「そんなはっきり言わなくても」
 さっくりと述べた結論は飾り気もない彼の意見で、クランフェールは深く頷いて、隣の肩をトンと叩く。今度はフージャが苦笑いしたが、テオバルト本人が動じないので幾分体重もかけた。
 覗き込む調子で、言う。
「要はオルカが好きってことだろ?」
「別にそうは言っていない」
「いや悪い意味じゃねえ。俺も賛成ってことだ」
 単純明快かつ気恥ずかしい響きでもある問いには、にべもない否定が返る。見越していたクランフェールはすぐに言葉を足し、そこでようやく手を元へと戻した。
「顔色窺ってビクビクするってのは性に合わねえし。なんだかんだ、主人っていうのは自分で見極めて選ぶものだ。意外と気が合うかもしれねえな。今度酒でも飲むか」
「テオバルトー」
 楽しげだが神殿にはそぐわぬ緩い誘いに、控えめながら軽く呼ぶ声が重なる。呼ばれたテオバルトは当然、三人は揃って建物のほうを見遣ることとなった。
「……と、丁度皆居りますね。うちの者と、お探しのあとお二方です」
 回廊の柱の影から現れたのはシハーブだ。丁寧な物腰、テオバルトと揃いの装束の端でよく手入れされた金の毛並の尾がご機嫌に揺れているのは、隣に居る銀髪が華やかな美女――〈角の民〉の女神官の案内でやってきたかららしい。シハーブ先んじて三人の近くへと寄って、楚々として歩む彼女へと向き直って笑みを作る。
「……はーいクラリス、元気そうで何よりだねぇ」
「お前俺の名前ちゃんと覚えてるか? あん?」
「それにフージャ」
「お久しぶりです。そちらもお元気そうで」
 横に並んだ途端小声で戯れに行く軽さは相変わらずだが、テオバルトが明らかに窘める視線を向けたのと〈角の民〉が控えている手前、それ以上の雑談は続かなかった。
「フージャ殿、クランフェール殿、テオバルト殿で間違いございませんね。御子の部屋にご案内いたします。こちらへ」
 女の細く柔い声が名前を並べ、建物の中へと手で示す。四人に増えた三国からの使者たちは、女神官の柔和な笑みに頷きを返し、揃って足を前に出した。


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