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二   座す神笑う神


 神殿然とした厳かな雰囲気の一部、敷物を広げて低いテーブルを置き、茶の支度を済ませた――そこだけ庶民的で寛げそうな持て成しの空間。その端に座り、挿してもらった飾りが曲がっているような気がしてそうっと撫でるように触れて手鏡を覗きこんでいたオルカは、近づいてくる大勢の足音にぴんと背を伸ばし、慌てて鏡を片付けに壁際の棚へと駆けた。エルフの伝統紋様が飾る小さな鏡を手早く布に包みこみ、また小走りで座っていた場所へと戻る。
「いらっしゃい!」
 それまで以上にそわそわとするのを抑え歓迎の声をかけるのは、すぐに現れた〈角の民〉――ではなくその後ろに続いていた三国の人々へだ。
 フージャとベサルバト、クランフェールとフィーリア、テオバルトとシハーブ。それぞれの国でオルカと縁が深かった六人を、彼女はお茶に招いていた。
「では御子、時間になったらまた参ります。それまでは皆さまでごゆっくり」
「はい!」
 〈角の民〉の女が慇懃に礼をして微笑むのに、オルカははっきりとよく響く返事をした。
 いつもはオルカと名前で呼ぶ人々が人前ではこのように畏まって呼ぶのも、もう慣れた。大人はそういうもので、それが仕事や礼儀というやつなのだと、若干幼い頭で理解したのだ。
 けれど。その姿が壁の向こうに消えてしまえばもう関係ない。オルカはただのオルカだ。えっと、と少し悩んでから、ぱっと手を開いてテーブルを示す。
「どうぞ! 皆は――オルカのお客さんの中でも特別だから、呼んでもらったの。おもてなしします!」
 厳かな建築とちぐはぐな装飾の類を眺めていた六人は、期待たっぷりの部屋の主の眼差しに顔を見合わせた。
 此処はオルカの私室で、建物自体の雰囲気とちぐはぐなのは来客の為に用意されたスペースだけではない。
 広い部屋の中央付近には、白く艶やかな象牙材に金や宝石をあしらい作られた〈角の主〉の姿像がある。ジノブットからの贈り物で、オルカでは持ち上げられないほどの大きさ、それだけで屋敷が一つ建つ豪勢さで実に目立っていた。ティーエなどは見ただけで裏にある顕示欲に胸焼けするような感覚を覚えたが、オルカは殊の外これがお気に入りだ。
 蛇の頭部に山羊の角がついているのがジノブットの描く〈角の主〉なのだが、誰かが近くで拝んだことでもあったのか、実のところ三国の絵図では最も実物に近い。角様にそっくり、と数あるジノブットからの供物――その財力を示す金銀財宝の中、こればかりは宝物庫ではなく己の部屋に置きたがった。
 奥、小さな寝台の傍の壁にかけられている青い布は旗で、三つの円を繋いだ三角形の中央に花を置いた、パラファトイ風の紋章だった。オルカの為にジヒタムが決めた形を、船の帆と同じように青染めにしたのだ。横に並んでいる毛皮は大きな熊の物で、クランフェールが狩った物を鞣して衣服の材料にと贈った上等品だが――それぞれは良いとしても、並ぶと何か、猛々しい首領の部屋のような趣だ。
 木製の質素な棚には宝石箱や菓子の瓶、本などが並んで少女らしいが、その横にはしっかりとした作りの釣竿が並べられているところが奔放な彼女らしさだ。勿論これも本人が作ったのではなく、フージャにねだって手に入れた物だ。手入れは教えられたとおり、しっかりとやっているようだが。
「久しぶり。――さっきのお澄ましはどうしたんだよ。もう終わり?」
「かっこよかったでしょ? 頑張って覚えたのよ」
「ああ。見違えたな。背も少し高くなったようだ」
「ふふー、ちょっとだけ。でもベサルバトに言われると変なのー」
 オルカと砕けた関係で暮らしていただけに諸々慣れがあるフージャとベサルバトが、一番早く動いた。部屋の主の意に沿うよう、用意されたテーブルの横へと寄って腰を下ろす。親戚の子にするような挨拶に応じるオルカは得意気だ。
 フージャが視線で促してやったので、他の者もぞろぞろと続いてテーブルを囲んだ。脇はパラファトイとジノブット、およそ対面の位置にはエルテノーデンの二人が来る。
 こうなるとオルカは誰と話したらいいやら、顔をあちこちに向けて忙しくなる。
 ジノブットを出て半年ほど、その間にも、色々な人に話したいことは膨れ上がっていた。それも、舞い上がった頭では思い出せない部分、言葉にならない部分が多くある。
「――丸暗記か。なら此処じゃ台詞の用意がないわな。お嬢ちゃんの女神ごっこ、上手かったぞ」
「ごっこじゃなくて本物なのにー」
 オルカたっての希望で、女神ごっこ――女神の御子の挨拶は代表以外の随伴の者などにもあった。本番も二回目だから少し緊張が解れてより上手く行ったと思うのに、クランフェールにからかわれて少し文句を返して。改めてフィーリアと目が合うと、少し、澄ました態度が戻った。
 彼女は他の使者とは違い、首元や手の甲までを覆う、布が多く肌を露出しないドレスを身に着けていた。色は白で、やはり柔い新芽の色のささやかなレースが袖や裾を飾っている。華美ではないが清楚な雰囲気で、貴婦人らしい様子はどちらかといえば親近感よりも憧れを少女に抱かせたが――首と耳朶には緑石を使った銀の飾りがあり、それが己の貰った贈り物とお揃いのようで、オルカは密やかに嬉しかった。
「久しぶりね、オルカ。元気そうで良かった」
 柔らかく微笑まれ、オルカは一層嬉しげに頬を染める。
「うん。リアお姉さんも元気……だよね?」
「ええ。オルカが呼んでくれたから嬉しくって、いつもより元気よ」
「……ふふふ、オルカも。会えてとっても嬉しい」
 話したいことは沢山あったが言葉に詰まり――まず挨拶、と残るジノブットの二人へと顔を向ける。右隣で目が合った瞬間、笑みを深めたのはシハーブだ。
「お招きいただき光栄です、姫様。あー……本を贈ったんだけどちゃんと届いてる?」
「うん! あれすっごく面白かった! あのね、魚の住んでるお庭の話が好き! 絵もきれい!」
 向こうからの挨拶と話題の提供に、オルカもはっきり頷いて応じた。
 この部屋にある棚のうち一つは本棚で、勉強の為の本の他、物語を纏めた物も沢山あった。大半は〈角の民〉の調達したものだが、近頃のお気に入りは鮮やかな挿絵の多いジノブットの物だ。〈角の民〉とその暮らしを、実際より清貧で無味に捉えているシハーブによって貢物の中に足されていた。
「それは何より。いやあ、っていうか、俺も招いてもらえるなんて思わなかったなー。どっちかっていうと嫌われてっかなーって思ってたし。でもホント、光栄っていうか嬉しいよ。姫様のお陰で左遷もそれなりに済んだし、本当に感謝もしてるから今度は本じゃなく……」
 はしゃいだ雰囲気の御子に幾度か頷き、シハーブは深く考えずとも動く口で喋り続けた。口説くような中身になりかけた頃、オルカとは逆側にじとりとした猫目が動く。
「――おいデカい兄ちゃん、お前は頷くだけか。お前も発言しとけよ」
「お前が喋りすぎなんだ……」
 オルカに対し隠れるように若干影になっていたテオバルトを睨み文句を言うと、受けた男のほうはいつもと変わらぬ渋面で言い返した。
 その語尾は、さっとシハーブの体の向こうから現れたオルカの視線によって曖昧にぼやける。煌びやかに着飾った少女は、以前別れた時と何ら変わりのないテオバルトを見つめた後、ふやけるようににこおっと笑う。
「ふふ。ちゃんと来てよかった!」
 テオバルトは何と答えたものか、悩んで動かなかった。周りも、ん? と聞き返す顔だ。
「テオバルトお兄さんはなんか来てくれなそうだったから、十回もお願いしたのよ。絶っ対、連れて来てねって」
 オルカの解説に、笑ったのはシハーブだ。バシンと強くテオバルトの背を肩を叩き、衣服を引っ張って己の横、オルカの側へと引き寄せる。
「分かってますねぇお姫様。こいつは出不精なんだ。でも仕事だから、次もちゃーんと連れてきますよ。だから俺も呼んでねっ」
 王の私兵として寵されていた彼らだが、オルカの一件で地位を相当に落とされていた。しかし、それを掬い上げたのも御子の一言だ。二人は御子と〈角の民〉の気に入りとして、手酷い待遇からは逃れることになった。
 茶化して媚び、付け入ろうという姿勢を隠さないシハーブの言葉に、そういえばそれもこの御子を尊ぶ理由の一つだな、とテオバルトは遅まきながら気づく。そして改めて姿勢を正し気味に、息を吸った。
「自分も感謝しております、御子。王は以後使節を出す際には、俺とシハーブを付き人とすることを確約してくださいました」
 内容は同じでも遊びの無い確かな礼に、オルカは目を瞬いた。王――ジノブットの金獅子の憤怒の形相を思い出しどきりとしたのは束の間、その続きに、ぱちぱちと瞬きを続けて、考える素振りを見せる。
「かくやく……いつも来るってこと?」
「そうです。御子様たっての願いということで」
 考え、意味はよく分からなかったが好意的に解釈したオルカの言葉を、テオバルトが頷き肯定した。片膝付いたその姿勢もあり、まったく臣下然としている。この中では堅苦しすぎるほどだ。
 その姿を見つめ、うん、と一度二度と頷き――
「難しい言葉禁止! ついでにですますもダメ!」
 自分が分かるように喋れ、という傲慢な言葉に、ついでの要望も続けるオルカ。またもや面食らったテオバルトに、オルカの背後でフージャが噴き出した。
「使者様――ティーエ様もそうだろ?」
「ティーエお兄ちゃんは皆にそうだけど、テオバルトお兄さんは他の人には違うもん。オルカだけ違うのずるい。だからダメ」
 ジノブットで改めて挨拶を交わし名を聞いた男を引き合いに出すが、オルカは折れない。そうでなければ口を利かないとばかり、テオバルトから顔を背け――テーブルの上に置いてあった茶器一式、取り皿と、大きな皿の上に被せた乾燥を避けるための覆いに気づいた。思い出した。
「そうだ! ねえ蒸しパン! 食べて。今日のはすっごい上手くできたんだから。お茶もいれるから!」
 大きな声で言い、テーブルに向き直り揚々と腕を伸ばして覆いを払う。中には、いくつかに切られた丸い蒸しパンがある。
「まあ女の子の手作りとあっちゃあ、食べないわけにはな……で、これはパンなのか?」
「菓子じゃね。匂いは甘いし、シロップ浸してある感じがするぞ」
「蒸すからちょっと湿っぽいんですよ。パラファトイでは集会なんかで出すんです。食事にすることはあんまりないから、茶請け菓子ですかね」
「むす……?」
「ああ、そこからか。えーと――」
 取り皿を並べて一切れずつ並べていくオルカを、テオバルトとベサルバトが手伝う。そのうちに、見慣れぬ物への疑問を素直に口にしたクランフェール、鼻をひくつかせたシハーブの問いにフージャが答える。
 海で隔てられたパラファトイは特に、調理法も独特のものが発展している。彼らにはいまいち縁の無い蒸し物の説明は、なかなか難儀だった。
「美味しいわ。ケーキともちょっと違って不思議な食感ね。ほら、食べて」
「うふふー。食べて食べて!」
 一足先に口にして感想を述べたフィーリアが気を利かせ、隣のクランフェールにも催促してやる。大陸側の人間に合わせたほうが良いとの助言を〈角の民〉から受けて選んだ紅茶を注ぎながら、オルカも続けた。
 それぞれ、齧りついたり千切ったりして口に入れていく。反応はそれぞれだったが、誰もが作り手の少女に向かってはよい顔をして見せ、よい感想を呟いた。
 もっとも、テオバルトのそれなどは本心からにも関わらず、シハーブくらいしか察せられないものだったが――うまい、と一言述べた後黙々と食べていたので、オルカは疑わず満足したらしい。
「これの材料が欲しいとこちらから言われた時な、ツァマル殿もいらっしゃったのだ。菓子も一人で作れるようになったと喜んでいたぞ」
 共に蒸しパンを齧り紅茶を飲み、喜色一杯でいたオルカだったが、ベサルバトの言葉にまたはっとする。
 フージャとベサルバトの側に向き直り、急いで口の中の物を飲みこみ、息を吸う。
「……手紙! 書くからちょっと、待って、ね」
「来るの分かってるんだから、書いておけよ」
「だっていっぱい書くことあるからー。今日のことも書きたいもん」
 勢いづいた声に頷きながらのフージャの揶揄に、周りも笑ったが。オルカはここに来て初めて気落ちした様子で、溜息を吐いた。
「話したいことだっていっぱいあるのよ。でも、時間ないから」
 人々がこうして来てくれるのは、それは大変に嬉しいが。時間は限られ過ぎている。離れて我慢していた期間はこんなに長いのに、と仕方ないと分かっていても、年より更に子供っぽい彼女には納得しがたい。
 困った顔をしたフージャを見て助けに口を開いたのは、丁度向かいに居たテオバルトだった。
「皆揃う機会は少ない、が、これからは回り番で参……来る」
 先の要望を命令として受け止めたテオバルトの律儀な言葉に、シハーブが密やかに噎せる。その為にいつもなら続きそうな同調の声は無かった。が、オルカの顔はぱっと上がった。
「〈角の主〉様とは逆にな」
「以前から角の地の礼拝に、それぞれの国が来ていたでしょう。あれと同じで、順番に来ることにしたの。だからそれぞれの国ごとにだけれど、もう少しゆっくりお話しできるわ」
 フージャが頷き、フィーリアが噛み砕いて説明する。
 先の話だ。だが、今日で終わり、次がいつか分からないというのではない。次がある、と皆が決めている。オルカの瞳が輝いた。
「――何回も来るんだ。すてき」
 いつもより少し賑やかになる、礼拝の使者たちの訪問日。かつてはどういう人たちなのかもよく知らず、遠くから眺めるしかなく、あの日船に忍び込んだのだったけれど。今度は違う。その日を待ちわびて準備をし、迎えることができる。
 こんな素晴らしいことはない、とオルカはフージャに飛びついた。フージャのカップが空になっていたのは幸いだ。
「すてき! でもっ、逆もしたい――またパラファトイにも行きたい。約束だもん。あと、今度は自分で、エルテノーデンと……ジノブットにも」
 すっかり調子を取り戻した少女を受け止め、ふっと安堵の息と共にフージャは笑った。自分の礼装も勿論大切だが、見るからに高価そうな相手の装いを気にしてやんわりと触れる。
「そのうち連れてってやるよ。船なら何処でも行けるんだから」
「おう、来い来い。うちの王様もきっと喜ぶしな。なあ、リア」
「ええ勿論」
「パラファトイに来たときは、今度は我々の家にも案内しよう」
 クランフェールも笑って続けば、オルカの笑みは一層に深まる。束の間の沈静を経て、場は一層に華やいだ。
 ――その横でジノブットの二人だけが、御子が来た場合の想定をして渋面とは言わないまでも実に微妙な顔をしていた。ちらと横目に見合って、シハーブが先に口を開く。
「……正直な顔すんなよ」
「それはお前だ」
 歓談はしばらく続いた。大体はオルカが言いたいことを言い、大人たちがそれに応じる形だが――望まれ、逆に彼らが国でのことを語るときもあった。大抵にしてオルカの一件で複雑な立場に身を置いたが、結果を見てよい状況に落ち着いた、そういう話だった。
 〈角の民〉によって紅茶のお代わりが持ち込まれた頃、奥の部屋から足音が近づいてきて、オルカたちは揃ってそちらを向いた。礼の姿勢をとったのは、エルテノーデンの礼装に身を包んだ――エルフが三人。
「御子姫様、ご歓談中に失礼致します。少々よろしいでしょうか」
「はぁい」
「魔石の具合を試していただきたいのです」

 彼らはオルカの〈冬〉の力を御する為にやってきた、魔石の技術者たちだった。
 オルカは全員を引き連れ、奥の部屋へと向かった。それまで居た部屋よりもかなり小さいそこは、本来ならば物をしまっておく収納の為の一室のようだ。部屋に居た七人と流れで監督になった〈角の民〉、作業をしていたエルフたち三人が揃うと、巨人族が居ることもあって手狭な雰囲気になる。
「これ、魔石ですか? 大きいですね」
 何より、部屋の中央には巨大な置き物が鎮座していた。男たちの背丈ほどもある、岩と言ってよい大きさの水晶だ。
 魔法装置と呼ぶにふさわしい、エルフの用いる紋様が描かれた椅子の如き台座に固定されている、エルテノーデンの山中で採掘された一塊の大結晶。反対側を透かす澄んだ色味は、美術的な観賞用加工用としても十分に価値があるだろう。
「運ぶのに苦労したんだぜ。今うちにある物の中で、一番デカくて質がいいって言われてる」
 クランフェールは疲れたような誇るような、そんな面持ちで頷き答えた。
 いずれ何かの為にと大切に保管されていた秘蔵の石を、他ならぬ〈冬の女神〉――オルカの為に運んできたのだ。エルテノーデン王の崇拝の表れだ。
 先に部屋に運び込まれた際一頻り歓声を上げ終えていたオルカは静かに石を見つめ、視線を彷徨わせて少々もじもじとした後、意を決してクランフェールを見上げた。
 目が合い窺う顔を見せた彼に、口を開く。
「あの、ね。持ってきてくれたのもだけど、……オルカと石を繋いでくれたの、本当にありがとう。此処に帰って来れたの、お兄さんのお陰」
 改まった礼の言葉に、クランフェールはフィーリアや技術者たち、他の面々も窺い、肩を竦めてみせた。はにかむ少女に悪い気はしなかったが、彼の態度はいつもどおりだ。
「偶然だ。たまたま気づいただけ。命がけで試しにいったのはフージャだし……俺が作ったわけでもないしな、礼は作った奴らに言ってやってくれ」
「こういうのは運命っていうの。――お兄さんたちもありがとう!」
 すぐに返ってくる口説きめいた訂正に、クランフェールらは目を丸くしたが――やがて堪えきれずに小さく笑んだ。
 続く御子からの礼に恐縮し畏まっている技術者たちを横目に、フィーリアがその肩を撫で、貴方は功労者よ、と囁いた。彼は結局素直に頷いた。
 確かに偶然、しかし思い起こせば、運命と呼んでよいほどに壮大な出来事だった。〈冬〉と人々の関係を変える、歴史を塗り替える一瞬があの時だった。それに女神を――この少女を助けることになったなら、偶然だろうが運命だろうが、それで良いに違いない。
「他の方も居てよいのかしら」
「構わない。むしろこれが上手く行っているところを見て帰ってもらわねば」
 フィーリアの問いかけに、石の賢者エルサーレの子――エルテノーデンを出るのを渋った父の代わりに派遣されたエルフの男は、幾分紅潮した顔で自信満々に言いきった。
 フィーリアもいくらかその手伝いをしていたが、同じエルフの彼女でさえ理解できぬ部分が多くある技術は、エルテノーデンが持つ力がどれほどのものか見せつける面でも利が有った。
 元より特異な魔石の力だが、御子の力の制御は多大な功績になる。これが上手く行くならば、〈雪〉の除染を謳って二国に対し大儲けだってできるだろう。
「さ、御子様、お手を。石に寄り添ってください。この中で眠ってみるような気分で」
 男はにこりと笑んで腰を折り、少女の小さな手をとった。すいと引いて、魔石へと導く。
「水みたいに透明だから、本当に入れちゃいそう」
 オルカは少し緊張しながらも笑って応じた。ひやりとする台座の端に腰掛け、深呼吸して、水晶の表面にぴたりと掌をつけて寄り掛かる。
 変化は、すぐ。見守る人々に驚きと緊張が広がった。
 透明な石の内側が溶けだしたかのように揺れ、流れができる。透いた水の流れのようなそこにやがて白いものが燻りはじめ――風が細かい灰でも吹き飛ばしたかのようだ。
 〈冬〉の力の現れたもの、〈雪〉だ。ざわと人々の肌が粟立ち体が強張った。
 〈雪〉はオルカの触れたところから石の内へと広がり、魔石の機構により流れを成し、渦を巻いて結晶を結んでいく。それは塩水を干上がらせた様にも似ていたが、
「雪のようだわ……」
 小さく呟いたのはフィーリアだった。目の前の現象のことではない。見目が似ていることから季節と共に〈雪〉の語源となった、僅かだけ発音の違う凍雨のことだ。
 雪。その言葉と、石の向こうの景色が合致した。テオバルトは熱風を和らげる為のたっぷりとした袖の内側で冷えた腕に、己の記憶を感じ取った。
 静かに、音もなく落ちていくもの。濁って膨らみ、硬く凍る水たち。その、白。
 故郷では当たり前の風景だった。年中このような風景を見ていた。土があるのと同じように雪が積り、大地は凍っていた。その上で行き倒れば体が冷えて死体と同じになり、死が勘違いをして連れていくと、言われていた。
 雪と〈雪〉は違う。けれど、水晶に閉じ込められたその力は、あの痛いほどに冷たい空気も思い起こさせた。遠い、遠い記憶だ。熱砂が肌を打つのとは違う。
 きっと今が、此処が終いだと教える、静かに満ちる白。
「美しいな」
 テオバルトのその呟きを、誰も否定しなかった。その為に彼は、己が声に出していたことに気づくのに時間が要った。
 水晶の中では緩やかに枝が広がり、零れるように底へと落ちていく。その凍えるかの美しさは、いずれ誰もがそこに行きつく、白き終わりの姿だった。
 
 水を取りに行った飯炊き場の隅に綺麗に割られた卵の殻を見つけ、青年は感心した。一般人とはまるで違う育て方をされた少女がまさかここまで巧みに料理をするようになるとは、以前は思いつきもしなかった。
 言ってしまえば、来客もその持て成しも、すべてがそうなのだが。〈冬の女神〉がこうして愛される日が来るなど誰も考えていなかった。何の悪戯か少女に宿ってしまったその力を、どうにかすることができるとも。寄り添う〈角の主〉さえ、難しいことだと考えていた。
 近頃、ティーエは女神が此処に来た意味、オルカがこのように生まれてきた意味を考えていた。伝承に曰く、追いやられて座った女神。その力を受けて生まれた御子。
 最初は確かに、追いやられたのかもしれない。何処にも居場所がなく、泣く泣く誰も神の居ない最果てで蹲ったのかもしれない。けれど、この地で彼女は生きている。もう追いやられたという言い方は正しくないだろう。女神は此処に、座っている。
 神話の時代は遠い昔に過ぎ、神の歴史は人々の歴史と共になった。今の〈冬の地〉も同じだ。長き冬を終わらせようとしているのもまた、女神の力の一筋であり――人々の意志に違いない。魔石が見せる形で表しているように、時に人は、神をも凌ぐ結果を出すのだ。
 きっかけを見出した誇れる三国、〈冬の地〉の民も、いずれそれを知るのだろう。最果ての地で、「我らは此処に生きる」と女神も民も声を張っている。
 ティーエは戻って来た露台でほうと息を吐いた。晩餐会、とでも呼べばよいだろうか、〈角の民〉と訪れた人々と、すべてで集まって食事をする時間が近づいている。それは、彼の仕事の時間でもあった。
 君は特に上手いから、任せたよ、楽しみだなあ。――と、己とそう違いない声で伝えてきた、仕える神の言葉を思い出す。
 世の神は皆揃って楽を好み、神官たちはその為に祈りや願いに楽器や歌を用いる。〈角の民〉も例に漏れず何らかの楽器を嗜み、伝承を諳んじるときなどにも奏でてみせるが――彼はその中でも名手と言えた。よって、オルカ捜索の次の仕事はそれになった。
 此度のことを、新たな伝説に。次の世へと引き繋ぎ、語り継いでいく為に、新たな詩を。
 離れたオルカの部屋での笑い声話し声が聞こえる気がして、ティーエは突っ立ったまま、暫し瞬きだけを続けた。穏やかな風が銀糸を掬い撫でた。
 女神の現身と人々の笑い声は絶えない。今回は数時間だけ、会議の合間の茶会でしかなく限りはあるが、一度終わったとして次がある。きっと笑い声は絶えない。
 ティーエは儀式に望むときのように粛々と歩み、円座の前で衣の裾を払って座り込んだ。楽器を抱え直し、深く息を吸い、力強く弦を爪弾く。

 波が抱く最果ての島。静かに深き森の峰。熱く沸き立つ砂の丘。白き姿の〈女神〉は裾を広げて座す。
 世の始めの時代、追いやられた終わりの女神。大いなる神より与えられし名は〈冬の女神〉。かつては大地と共に口を噤み、嘆き暮らした。
 されど今、友神が慈愛の雨を与え、優しき民が寄り添い、賢き民が石を用いた。
 〈女神〉は光の雲の下、三つの国の民と共に笑う。
 彼女の座す地を〈冬の地〉(レクタルヴ)。女神と人々の土地とする。


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