前頁 / 目次 / 次頁

二  捕獲劇


 オレンジの匂いがした。
 顔をあげると、たわわに実る黄色の果実がテオバルトの目に飛びこんできた。ひそめた眉をほどき、低い木が数本立ち並ぶ小川の前でひっそりと立ちつくす。砂漠の熱を吸いあげた熱い風が一時和らいだように感じられた。
 このような景色を見るたび、テオバルトは夢に見るような楽園だと何度となく思わされる。
 燃える砂を越えた先に、蜃気楼のごとく現れるジノブットの都カルンは、よくそう称された。周りに幾重にも連なった果樹園が人目を引くからだが、そのカルンでも宮殿のうちは別格だ。宮と宮の間につくられる中庭では、豊富な水が躊躇いもなく木々を潤し、虹を生む。今も生き生きとした椰子や柘榴の木がまどろむように葉を揺らしていた。
 木に限らず、このうだる熱が薄らぐまでのひと時、ジノブットの民は休息をとる。奴隷や婢はめまぐるしく仕事があるが、あるじの貴人が休むこともあって弛緩した時間となった。今日もまた、陽炎たちのぼる宮殿はひっそりと静まり返っていた。
 だというのに。
 テオバルトはため息をついた。頭をめぐらし、手近な下生えを払い、うちを覗きこむ。さっと光のあたるのは転ぶよう逃げていく小さな虫だけで、探しているものは見当たらない。こみ上げるため息を呑みこみ、彼は空を仰いだ。
 それは、そもそも彼が探すべきものではなかった。特に今は勅命を受けており、ましてその進捗が思わしくない。本来であれば関わり合う時間はないのだ。だが思いとは裏腹に、彼は幾度となく「それ」の捜索に駆り出されていた。
 一体なぜ自分が――切りのない問いがため息となって流れ出ようとした時、近くの椰子の木が軋みをあげた。
 弾かれるように顔を向けると、すだれ状の葉から小さな片足が飛び出していた。布靴に包まれたそれが慌てるよう上下に揺れたかと思うと、もう一本の足も勢いよく生えてくる。
 彼はため息を抑え、それに声をかけた。
「何をしているのですか」
 それはびくりと体を竦ませ、慌てたように細い枝にしがみつく。半ばずり落ちそうな体を必死に立て直そうともがく姿は、いたいけな子猫のようだった。応えずにいる彼女に向かってテオバルトはゆっくりと歩を進めた。驚かせないようにだ。
 足をばたつかせた少女は、だが思ったように進まず、あっという間にずるりと枝から滑り落ちた。咄嗟に伸ばしたテオバルトの腕が、少女の体を受け止める。
 衝撃を受け止めるべく固く閉ざしていた目が、ぱっと見開かれる。しばし呆然とした体であった少女は、テオバルトの無表情を認めると、きっと目をつり上げた。
「いーやー!」
 テオバルトの顎を押し出し、腕をつっぱる。
「嘘つき! うそつきー! オルカの好きにさせてくれるって言ったのに!」
「付き人さえご一緒でしたら別になにも申しませんが」
「だってみんなオルカの邪魔するんだもん! オルカはっ、ただリアお姉さんを助けたいだけだよっ」
「……彼女は安全なところにいます。その必要はありません」
「うそつきー! ずーっとずーっとそう言って会わせてくれないくせに! あのおっきい王様、ちゃんと会わせるって言ったのにっ。だからみんなの前で」
 オルカは少し声を留めた。ちらりとテオバルトが視線を走らせると、オルカは少し泣きそうに俯いている。
「約束したから、オルカ……みんなに嘘ついたのに」
 ――長く続いた内紛を終えたのを祝し、『建国祭』と謳った祭りが催されてから、半月が経とうとしている。それは少女が〈雨の御子〉としてジノブットに広く知らしめられてからの月日でもある。〈雨〉を呼ぶことで逗留を歓待された少女は、宮殿の一画を与えられ、王に勝るとも劣らぬ豪勢な扱いをうけていた。拘束はひとつもない。執政宮と兵舎群以外であれば、城ではどこへ行くなりと自由だと王は彼女に約したからだった。
 〈雨の御子〉は自らの意志でジノブットに留まっている。傍目にはそう映り、概ねの民はそう信じていた。供人ひとり連れずに城のいたるところに顔を出すのは、少女の好奇心ゆえと誰一人疑っていない。
 密やかに〈雨の御子〉がジノブット入りしてから一月半あまり、彼女の脱走はゆうに十を越える。少女が姿を消すと、テオバルトは真っ先に駆り出された。繁茂する木々に埋もれるよう動く少女を見つけるのはいつも彼だったからだ。また脱走の理由を知る数少ない立場であったことも、呼び出される一因だった。
 テオバルトはついと目を反らし、彼女を抱え直した。その振動にオルカはわっと言って、慌ててテオバルトの服を掴む。だが、すぐに嫌なものを触ったみたいに素早く手を放した。
「嘘ではないでしょう。あなたは〈雨の御子〉です」
 冷めた声に、オルカはきっと目尻をあげた。
「違うもん! 〈雨〉を降らしてくれてるのは角様で、オルカはオルカだもん! それに、それに、オルカ来たくって来たわけじゃないもんっ。オルカは帰りたいのー!」
「エルテノーデンとてここと変わらないかと思いますが」
 オルカはぷいとそっぽを向いた。教えてやらないと言わんばかりだ。
 聞き出すことでもあるまい。内心ため息を吐いて、テオバルトは彼女を抱えたまま歩きだした。
 その矢先、奥の茂みからひょっこりと男が顔を出した。眠たげにあくびをかみ殺し、やあ、と手を振る。テオバルトは眉をひそめた。オルカが目をまん丸に見開き鋭く指を指す。
「あー!! あの時のひとー!!」
 その大音声に男の耳がすぐさま伏せられた。髪と同じ金色の毛なみをしたそれは、三角に尖る猫の耳だ。端正な顔を歪め、おーおーおーお元気なことで、とうそぶいた彼は、目と同じ金色をした三つ編みを背に払った。
「覚えていただけで恐悦至極。けど、もうちょいおれの鼓膜も気にかけてくれると助かるねえ」
「シハーブ」
 低く咎めるテオバルトの声に、彼はひょいと肩をすくめて笑った。人間のテオバルトより猫の獣人であるシハーブはわずかに上背が高かった。
「すぐいくって。んもー休憩時間くらい好きにさせろよ、朴念仁。だから女にもてねえんだぞ」
「話がすり替わっている」
「はいはいわかったわかった」
 眉をひそめたテオバルトに、オルカがはっと顔色を変えて見上げてくる。知り合い、と怪訝そうな声音で呟き、テオバルトとシハーブに目を行き来させる。
「あらら。知らなかった? そうそう、マブダチ、っつか最早俺の弟? なあテオ」
「上司にそんな口の聞き方をする兄を持った覚えはない」
「なに、敬って欲しいの? 至高にして英明なる我らが閣下、しかして閣下はまたかくれんぼに駆り出されたのでありますか」
「っ、かくれんぼじゃないもん! オルカはねー!」
「わかったわかった。お姫様、だからおれの耳に優しくね。もうちょい大人だったらぜひとも甘い声の特訓を手取り足取りしてあげるんだけど。んー」
 シハーブが至極残念そうに首をひねった。テオバルトはうんざりと天を仰いだが、オルカは何か気にかかったように、あまいこえ? と繰り返した。
「あまい? 声が甘いの?」
「おおゲロ甘よ。身も心も蕩けそうになるぞ。二年……いや、三年だな。それくらい経ったらおれんとこくりゃそれこそ隅々まで教えてやるよ」
 つと伸ばされた男の長い指にオルカが興味津々に身を乗り出そうとしたが、その前にテオバルトがオルカをシハーブから遠ざけた。
「触るな。よごれる」
「あらま。ざんねん。何、テオ嫉妬? 仕方ないな、お前にも教えてやるから安心しろ」
「いらん」
「遠慮するなって。女が専門だが、まあお前なら致し方ないと思わんでもない。いやあ、これで朴念仁も卒業か。長かったなあ。お代はいいよ、次におごってくれるだけで」
 からから笑う男に付き合うのが億劫で、うるさい、と言い捨ててテオバルトは歩を進めた。ひょいと肩をすくめてシハーブが後ろからついてくる。
「えー。せっかくのおれの好意だっていうのに。お姫様だって知りたいよなあ、甘い声」
「だまれ。さっさと仕事へ戻れ。御子を送ったらすぐ俺も行く」
 その言葉にオルカは我に返り、慌ててまた逃げ出そうともがき始めた。興味深そうに覗きこむシハーブの腕に、暴れ回る足があたりそうになるが、ひょいと身軽に避ける。オルカの指がテオバルトの頬を思い切り引っ張る段になり、ようやくシハーブが苦笑をにじませた。
「お手伝いしたろーか?」
 眉間に皺をたたんでいたテオバルトは、だが前からくる一団に気づくと、いや、と首を振った。
 果たして足音高く現れた集団は、オルカの姿を認めて慌てて膝をつく。
「こんなところにいらっしゃったのですね! お怪我はございませんか!?」
 丁寧な動作で腕からおろされたオルカは、見上げてくる集団を見て、ちょっと躊躇ったあとにぷいとそっぽを向いた。
「オルカ、ちょっと散歩をしてただけだもん……」
 集団は目配せをしあい、うろんに笑んだ。
「さようでございますか。ですがどうか供の一人おつけください、〈雨の御子〉」
 耳のふちをただ撫でていくような言葉だ、とテオバルトは思った。
 彼らは不満そうに黙りこむオルカに薄く笑って、さあ、とうながした。小柄な身体はあっという間に獣人ばかりの壁に阻まれ、テオバルトの目には服の裾を固く握りしめるのだけが微かに見えた。
 だが、歩きかけた足が止まる。ぱっと振り返ると、テオバルトたちに――いや、テオバルトに向かって、隙間からいーっと歯を出した。すぐにくるりと前に向き直り、集団を置き去りにするよう中庭を駆けていった。
「元気だねえ」
 慌ててついていく人々の背を見送り、テオバルトはゆっくりと踵を返した。
「行くの?」
「当たり前だ」
「お仕事おつかれさまでえす」
 応えず足早に歩いていくと、嘆息とともにシハーブの足音が追ってくるのがわかった。
 日の滲む中庭を過ぎ行き、柱廊を渡る。向かう先は後宮と執務宮の間にある場所だ。建物の奥に入ると扉の前に立つ警備をすぎて、細い螺旋階段を下っていく。まるで地底へと飲みこまれそうだと思う傍らで、あーくれえなあ、とシハーブがぼやくものだから、あまり重みは感じられなかった。
 螺旋階段の底に降り立つと石壁の牢屋が姿を現した。等間隔に設えられた蝋が三つだけ燃えている。冷風に小さな炎は頼りなく揺らめき、悶えるように影が姿を変えた。
 まっすぐ伸びる道の奥で、椅子に座った男が立ち上がった。
「何か話したか、バッカール」
 巨躯の部下は苦笑して首を振った。なあんにもですよ大将、とうそぶく男に、シハーブがやれやれとばかりに首をすくめる。
「揃いも揃って、女ひとり陥落できねえとは情けないねえ」
「まあそう言うなや。お前さんだってさっぱりだっただろ」
「おれの場合は持ち味全て禁止されてるから。今すぐにでも許可がもらえんなら、二時間で洗いざらい吐かせられるけど?」
 そら剛毅だな、と巨躯をゆすり、ちらりと笑みの滲む目をテオバルトへと向ける。
「で、どうしますか、大将」
 テオバルトは嘆息をのみこみ、二人の奥にある鉄格子の、さらに奥へと目を向けた。
 女が粗末な寝台に腰をかけている。わずかに俯いた顔に黒髪がかかって、揺らめく火影が艶を見せている。その髪の隙間から、尖った耳が見え隠れした。
 囚われのエルフは、男たちの声がまったく耳に入らぬかのように、ただ端然と座るばかりだった。


前頁 / 目次 / 次頁


Copyright © 2013 All rights reserved.
inserted by FC2 system