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一   降雨祭典


 渦巻く熱気で、空気は赤く燃えあがるようだった。
 蒼穹の下、広場につめかけた聴衆は口々に声を張り上げていた。音が音を飲み、意味を崩していく。姿を変えた、津波のようなひとつの歓声はうねりをもって壇上の男を押しつぶそうとしていた。
 神殿に続く白亜の階段の上に立つその彼は、大柄だった。飴色の肌に踊る筋肉は隆々とし、上背も十二分にある。狼の血筋なのだろう、夕陽のような赤髪から同じ色の尖った耳が覗いていた。
 彼がひとたび手をあげた途端、潮が引くよう熱が鎮まっていった。
「長く待たせた」
 大きな声ではなかった。だが、人々は浮かされたように余韻を追って目を細めた。
 それは男がこの国の王であり、まぎれもなく唯一の王となったからだった。
 〈雪〉が蔓延りはじめた古き時代、それを乗り切らんとし、砂漠に生きる人々は手を携えひとつの国を作った。それが『ジノブット』。時代は下り、どの部族もその名を継いだと声高に叫び、この地は長く部族で争う時代が続いていた。
 戦に倦んだ大地を、あるべきひとつの国の姿に戻した男が、彼だった。
 名をキファーフ・イグラーツ。砂の国を端々まで平らげた『ジノブットの王』だった。
「父祖の父祖が築いた我々の都が、ジノブットの名を失って久しい。だが、名は戻った。我らこそジノブット。砂の民、恒久の安寧を約されたジノブットである!」
 羽織を翻し、彼は高らかに宣した。
 耳鳴りをもよおす歓声が、陰りのない太陽さえ震わすごとく一気に轟いた。
 王は民衆の熱狂にひとつ頷き、だが、と続けた。さきほどの熱と比べものにならぬほど冷ややかだ。見やる先は敗した族長が居並ぶ天幕だった。瀟洒な赤布が垂れたその奥を、強い眼差しで透かし見る。
「信じぬ者もいるだろう。――もう一度言おう。我々は平和を約束された。他でもない、神からもたらされた。これが証だ!」
 言うや否や、キファーフは後ろへ手を振るった。
 礼拝堂と外を切り離すいくつもの柱の奥から、緩やかに人影が歩んできた。まるで焦らすよう、真夏の陽射しがそっと重い影を脱がせていく。
 その髪は、春の空を泳ぐ柔らかい雲のようだった。金銀の刺繍がいくつもある豪奢な衣服と比べて、装飾はひとつもなく、風の向くままに踊っている。幾万の眼差しを見返すのは、獣じみた金色の瞳だ。
 開けた視界に呑まれたように立ちつくしたのは、少女だった。
 影との境に立ったまま、彼女はつたなく周りを見渡した。腹に当てた手を握りしめると、途方に暮れた迷子のように眉を落とす。
「あの」
 針を落としたような小さな声だった。とりどりの色をした民の瞳に問いかけがにじむ。誰だ、何だ、何者か、と。
 しかし、少女の言葉は続かなかった。唇を空回りさせ、落ち着かなく手を動かすばかりで、自分の影にじっと目を落としている。
 やおら王が音を鳴らして裾をさばいた。動かぬ少女にたった二歩で近づくと、強ばる肩を抱いた。
 少女の不安を映したようにざわめく聴衆へ王は朗々と告げた。
「北の地に〈雨〉が降らなかったことは、記憶に新しい。それから〈雨の季節〉はエルテノーデンから過ぎたが、どうだ。次はあの森に〈雨〉は降り注ぎ続けた。なぜかわかるか?」
 ――エルテノーデンの〈雨〉が枯れた。海の国パラファトイとの戦端のきっかけ、久しく安定していた三国の均衡が破られた一件は、〈雨〉に関わりがあることからジノブットにも重い出来事だった。不可解なことは続き、次に〈雨〉は枯れたはずの森の国を覆った。そうして海の国に流れる時期になっても、いつまでもじっとりと濡らし続けたのだった。
 その理由は、細い流通路にのって噂として流れてきた。
 その地にいるだけで〈雨〉をもたらす、〈角の主〉に愛された御子がいる。
 ある者はほらだと眉をひそめ、ある者は真実だと耳打ちした。どれほど口の端にのぼろうとも誰も確信は持てなかった。
 先ほどとは違う意味で、人々の間に戸惑いがたゆたいはじめる。砂漠を走った疑惑はいま、ひとりの少女のかたちを取ろうとしていた。
 少女は震えながら唇を開いた。オルカは、と掠れた声をもらすが、続く言葉はない。
 背後に立った王が優しげに彼女の耳へと顔を寄せた。少女の背丈は王の半分ほどしかない。いたわるような囁きを吹きこむ間、少女はすっぽりと王の影に覆いつくされていた。
 王が身を起こす。とたん、影がはがれて光が少女にふってくる。
「……オルカは!」
 初めて大きく張られた声は、上擦って不安定に揺れた。
「オルカは、このジノブットに、自分の意志で来ました!」
 少女は余韻を恐れるように、ぎゅっと目をつぶった。
「じ、ジノブットは〈雨〉が降るべき国です! だから、つ、角様の、お願いでオルカが来ました。ずっと、ずっと、ジノブットは祝福されます。この国に王様がいる限り」
 つたない言葉だったが、その様に、また少女の見目に、心を動かされる者もいないではなかった。獣人ではない、人間の色味とも違うように見える。角の民でもあり得ない。
 彼女ははたして本物なのか。
 そのときだった。誰かが細く声をあげた。声が伝播し、人々が指をさす方へおとがいがあがる。誰もがそれを見た。快晴をゆるゆると渡ってくるそれは、まるで〈角の主〉の裳裾のよう。
 最初の一粒は襤褸を着た犬の少年の鼻先に落ちた。それから、蛇の女の肩へ、馬顔の男の頬へ、そうしてロバの双子が差し伸べた手のひらを打った。柔らかく降りてくる幾万の雫は、あっという間に温かな極上の絹のように詰めかけた聴衆を包みこんだ。
 弾け飛ぶような歓声があがった。
「〈雨の御子〉!」
「〈雨の御子〉だ!」
 光る雲から降り注ぐのは、まぎれもなく〈雨〉。あらゆる生命を毒す〈雪〉を、そっと蕩かせる慈悲の涙に相違なかった。
 王の声が、歓声を割った。
「我々は御子の意志を尊重し、あなたの逗留を受け入れよう! 我らが〈雨の御子〉に祝福を! ジノブットに幸あれ!」


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