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四  吟遊詩人


 日が落ちてシハーブが顔を見せると、彼はテオバルトを外へと誘った。
 怪訝に眉をひそめたテオバルトを、まま久々なわけだしいいじゃねえか、と陽気な声で煙に巻き、意気揚々とした足取りで城を抜けていく。このような展開は珍しくない。止めるのも億劫に思え、テオバルトは仕方なしにその背を追った。
 早々と現れた猫の爪のような細い三日月が、活気あふれる大通りを粛々と見下ろしていた。通りは夕食を買う男たちであふれ、その間を気軽な足取りで縫っていく。
 奥まった一画にあるなじみの食堂につくと、シハーブは扉を勢いよく開けた。むわりと熱気とともに香ばしい臭気が全身に襲いかかる。薄暗い店内は、今日もほどほど賑わっていた。
 定位置の席へと足を向けたテオバルトは、前を行くシハーブが違う方向へとずれたことに気がつく。向かう先はカウンターだった。店主の前にふたり、壁際にひとりだけ座っている。
「どうした?」
 テオバルトの声にシハーブは肩越しににっこり笑う。そのまま端に座る人物に近づくと、その隣に腰をおろした。カウンターに肘をつき、やあ、と目深に被ったフードの奥を覗きこむ。
 悪癖か。テオバルトは眉を顰めた。常ならば気にしないが、今日は彼から話があるからと来たのだ。そうでなければ明日を考え、テオバルトはすぐにでも休みたかった。
 このまま放って帰ろうか。掠めた考えを実行しなかったのは、その前に蛙を潰したような声がシハーブからあがったからだった。
「男かよ!」
 フードから見える横顔が、やんわりと微笑んだ。高い鼻梁に、薄い唇、陶器のような肌をしている。だがまっすぐ見ると、たしかに男であった。
「どなたでしょうか」
「あー、ちょっとした手違いっていうか、人違い? 邪魔してわるかったな」
「ああ、よくよく考えることもなく早とちりをなされたと言うことなのですか」
「……まあ、そうとも言えるけど。言うねえ」
「失礼しました。ジノブットは初めてですが、ここではこれは普通ですか」
「まあね。陽気でいいもんだろ」
 男は日だまりのように笑んだ。
「実に羨ましい。常春ですね」
「んー……けっこう怒ってる?」
「さて。見知らぬ他人から女性と思われ口説かれるのは、とても愉快な体験かとは思ってはいますが」
「あー悪かったって。根に持つ性格だねえ、あんた。しゃーねえな、いいよ、一杯おごってやるよ」
「して頂くほどのことではありませんが」
「ここまで吹っかけておいて、今更感あるねえ。何でも良いって、言わせたい? おーおーかまわねえよ、一杯なら何でも」
 男は伏し目がちに、それではお言葉に甘えて、と言い銘柄をあげた。この店で一等高い酒の名前だ。
「……本気でふっかけんのな」
「おや。払えないのならかまいませんが」
「あーはいはい。わかったよ。ったく、とんでもねえ貧乏くじを引いたもんだね」
 首を鳴らしつつ、シハーブは店主のもとへと、重い腰をあげた。
 それを何とはなしに眺めていたテオバルトは、男がじっとこちらを見ている事に気がついた。顔だけではない、揶揄を含む目が全身にそそがれている。
「なにか」
 男はひそやかに笑い、いいえ、と首を振った。それからまた彼は黙りこんだ。不自然にあく沈黙にテオバルトは戸惑い、しばらく躊躇ってから声をかけた。
「ジノブットは初めてというが、何か用事できたのか」
「ええ――そうです。祭りを見に来たのですよ。盛大な宴でしたね。〈雨の御子〉の姿も拝見しました」
 テオバルトの脳裏に、白い少女の姿が掠める。咄嗟に視線をそらすと、何かありましたか、と声がかかり、テオバルトはしずかに首を振った。
「さようですか。それでしたらかまわないのですが。……あなたはご覧になられましたか、〈雨の御子〉を?」
「……ああ」
「あなたは彼女が〈雨の御子〉と思いますか。たしかに彼女が〈雨〉を降らせているのだと」
「知らん。だが、降ったのだから可能性はあると思っているが」
 へえ、と男は眉をあげた。
「王は、祝福が必ずもたらされると公言していましたが」
 はったりだ。王は根拠もなしに確信はしない。だがそれをいかにもあるように見せかけるのは大得意な性格だった。黙るテオバルトに、男は密やかに笑った。
「思ったより、神話は失われている」
「……なんだ?」
「お気になさらず。大きな独り言です。そして、これもそう」
 眉をひそめるテオバルトに、男は歌うように告げた。
「遠からず、〈雪〉がもたらされる」
「……どういう意味だ」
 含みのある不吉な言葉に、自然と目に険がよった。
「そのままの」
「どういうことだ。〈雨の御子〉がいれば〈雪〉はでないはず。……それとも何か。〈雨の御子〉はいない。そう言いたいのか」
「さあて、どうでしょう。信じるも信じないも、あなたの心のままです」
 彼は止まり木から滑り降りると、荷をとりテオバルトの横をすり抜けた。まて、と声をかければ、彼はぴたりと足を止める。肩越しにゆるりと振り返った。
「答えろ。……何か、知っているのか」
「おや。わたしを信じるのですか?」
 くすっと男は笑った。
 テオバルトはわずかに躊躇った。答えを聞けたとして、たしかにこんな男の言葉を吟味するのか。ただの戯れ言のような言葉を。
 迷いを読むように男は婉然と笑むと、ゆるりと膝を折った。
「幸せを祈っていますよ、ジノブットの民。角の主のご加護があらんことを」
 そうして男はあっさりと扉から出て行く。ぐらりときしむ扉が湿った風を招き入れ、蝋燭の炎が身悶えした。
「何だったん?」
 背後から近づいてきていることは気づいていたから驚きはない。テオバルトは唇を空回りさせ、いや、と結局首を振った。シハーブを振り返ると、扉を流し見ながらちろりと小さな器に入った酒を舐める。すると、耳がぴんと立ち上がり、うっとりと目を細めた。
「うあーうめー。こんなものを呑んでかねえとかホントもったいねー」
 どかりと今まで男が座っていた椅子に座り、シハーブは嬉々として酒に口をつける。テオバルトも小さく嘆息して、その隣に腰をおろした。
「あれがそんな気になる? 追うか?」
 テオバルトはシハーブの目を見返し、すぐおろした。
「……必要なら、あとで行方を探らせるくらいでかまわない。それより、話は何だ」
 んー、とシハーブは杯を揺らして苦笑した。
「オアシスでなんか面倒なことにってるっぽい」
「戦か」
「そこまでいかないけどね。まあ、ちょっと喧嘩がな」
「エルテノーデンとか」
 シハーブは肩をすくめる。エルテノーデンとの国境にあるオアシスは、二国で長らく取り合ってきた土地だ。今では自立地帯となって落ち着きを見せているが、それが仮初めであることは両国承知していることだ。
 王がこれを放っておくようには思えず、テオバルトは小さく舌打ちした。杞憂だといいけど、とシハーブが小さく言ったが、かけらも信じていない口ぶりであった。
 戦の足音がする。
「なあ、テオ」
 沈んだ声がして、ゆるゆるとテオバルトは顔をあげた。
「わりぃ。金忘れたからおごって」
 ――ちょうどそのとき目の前に立った店主が、見知らぬ男が頼み、シハーブが呑んだ、店一番の酒代を要求した。


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