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五  汝、道具なり


 久方ぶりに本気で砂海にこの部下を沈めるべきか否かを悩んだ夜が明けると、テオバルトは幾人かの部下に昨夜の男の行方を追わせた。さしたる成果を期待したわけではない。ただざわつく心を落ち着かせるため、ひとまず打った手だった。けれど進捗は芳しくなく、二日、三日と経っても男の行方は杳として知れなかった。
 祭りのためと言っていたから、もう都を経ったのかもしれない。テオバルトは己をそう納得させた。見つからぬことに反面の安堵もあった。正直、何を問うつもりかもわかりかねていた。
 芳しくないと言えば、女の尋問も捗々しくなかった。これはいよいよ手段を選ばざるべきか。部下のあげてくる報告に耳を傾けていると、あるいは戦場を駆けた方がましかもしれない、と半ば本気で思えた。
 部下をさがらせ、テオバルトは部屋でまんじりとせず考える。果たしてエルフは何かを知っていると言うのか。
(それ以上に、あれは〈雨の御子〉なのか)
 確かに〈雨〉は降った。それがどのような形であっても。
 だが――信じていない。〈雨の御子〉だけが信じられない、というわけではない。〈雪〉、そして〈雨〉。それらをいまだ、得体の知れない不気味なものに感じられて仕方がない。
 はじめて見たのは十歳。燃える砂漠を越えて辿り着いたオアシスに蔓延っていたのが〈雪〉だった。砂にも家にもあらゆる箇所に吹雪が吹きつけたように張りついていた。椰子の木がそのまま白く形を残していたのは今でもよく覚えている。
 奴隷商人が呻いて、これが〈冬の地〉だ、と言った。呪われた土地。古い神話がいまだ息づく世界の果て。故郷には自然への素朴な信仰はあっても、目に見える形で神の息吹など感じたことはなかった。それにも関わらず〈雪〉を目にした途端、腹の底からわき上がる嫌悪感が全身を襲った。まるで原初からの刷りこみのよう、あり得ないと呟いても消えない感情だった。
 〈雪〉は空から降るのではない。地中から湧き出て、あらゆるものに付着して毒で冒していく。結晶のような姿で、さらりとした雪より塩に似ている。固く、そうして毒で冒していく姿も、よく似ていた。
 光雲から降りそそぐ〈雨〉を目にしたときは、たしかにこれは慈悲だと思えた。温く柔らかな粒は〈雪〉だけでなく、垢と傷まみれの体さえも優しく濯いでいった。
 けれど、神というものをテオバルトはいまだよくわからない。まして〈雨の御子〉が一体どのように降らしているかなど。
 信じていないのに、どうして探るのか。テオバルトは細い息を唇から逃した。
(関係ない。……考え、決めるのは王だ)
 ラカンヌはただの王の手足に過ぎない。
 このままでは物思いに沈みきって戻って来られないように思われた。いっそ気分を変えて訓練にでも参加しようか。シハーブあたりが聞けば「筋肉ばかー」と腹を抱えて笑いそうなことだと思いながらも、腕を軽くまわせば久方ぶりに体がうずく。
 練兵場へと足を向けたテオバルトは、だがその道中、遠目にあの見慣れた髪を見つけた。雲のような柔らかな白髪。廊下を隠れるように進んでいくのが、窓からひょこりひょこりと見え隠れすることでわかる。
 またか。テオバルトは小さく舌打ちをした。随分と遠くまで来ている。もうすぐ立ち入り禁止の区画に入ろうかとしていた。
 足を踏み出しかけ、ふと思いとどまった。
 もしも――かすめた考えに一瞬心が奪われる。意味はあるのか、と自問するも、まとまりのある答えは返らない。思い悩むうちにもオルカは廊下の端から、ひょいと顔を覗かせた。咄嗟に隠れたテオバルトに気づかず、オルカは軽い足取りで走り出す。おそらくオルカが探している場所とは、まったく違う方向へ。
 躊躇いは消えない。果たして意味があるのかもわからない。
 けれど、盛大にこけたオルカを見て、テオバルトはため息を吐いて柱廊の影から抜け出した。


 横を見て、後ろを振り返り、前の階段に顔を突っこんでみる。真っ暗だった。
 石壁の続く部屋であたりをしりきに見回したオルカは首をひねった。
「ここどこだろ?」
 あらためて呟いてみれば少し心細くなって、オルカは慌てて首を振った。こんなでは駄目だ。もっとしっかりしないといけない。つんと鼻を刺す臭いが階段から立ち上ってくることも勢いよく頭を振って放り出すと、よし、と力強く頷いた。
 そうして、下っていく暗い階段にゆっくりと足を踏み入れた。
 ここに辿り着いたのは、まったくの偶然だった。人に見られないように用心して移動していたら、フィーリアを探すのをいつも邪魔する人がオルカに気づかず、目の前を歩いていったのだ。はじめはびっくりして隠れたが、すぐにとてもいい機会だと思った。
 きっとあの人はリアお姉さんの居場所を知っているに違いない。だってあの猫の人の仲間なんだから。そう考えて尾行を開始した。たくさんの人がいてびくびくしたが、幸いなことに彼は人気のない所ばかりを通っていく。だからオルカは安心してついていくことができた。
 右に左に曲がっていった先で、この小部屋に辿り着いた。彼は部屋の前にいた小柄な男の子に、どうだ、と声をかけた。順調か、何もないか、彼女の様子は。オルカはピンと来た。きっとここがリアお姉さんのいるところだと。
 どうやって中に入ろうかとうずうずしていると、これまた幸運なことに、彼は見張りの少年を連れて廊下の先に姿を消した。廊下の角に折れていくのを見るや否や、オルカはぱっと駆けて、部屋の中に滑りこむ。薄暗い部屋にはひとつ、下へ降りる階段があった。
 ここはどこに繋がっているのだろう。怖さと、ちょっとだけわくわくした。知らないところへ行くとき、いつも鼓動は慌てたように駆け足になる。船にはじめて乗ったときも、フージャのお家へ行ったときも、ベサルバトの肩に乗ったときだってそうだった。
 苦しかったのは一度だけ。パラファトイからエルテノーデンの船に揺られたときだけだ。
 底なし沼のように階段はずっと続いていく。こんな地面に入って大丈夫なのだろうか。こんなに行ったら、きっと別の世界に行ってしまうのではないか。
 そんなことを思った瞬間、あっ、とオルカは声をあげた。奥に明かりが見えた。勢いよく駆け下りみると、鉄格子ばかりの場所が現れた。
「なんだこれ?」
 知らない造りだ。パラファトイでも、エルテノーデンでも、お家でも見たことがない。首をひねって鉄棒に触ろうとしたオルカは、その時鋭くあがった声に肩を跳ねさせた。
「そこにいるのは誰!?」
 その声に、オルカは見開いた目を向ける。廊下の先で、細い女の手が伸びていた。今度は心臓が跳ねた。駆け出してその手を、ぎゅっと掴んだ。
「リアお姉さんだあ……!」
 信じられないと言わんばかりの目で女が見つめてくる。呆然とした顔を手とオルカに行き来させ、こわごわと握り返す。どうして、と掠れた声が問いかけ、オルカは笑った。
「オルカね、オルカ、お姉さんを助けにきたの!」
 笑ってくれると思った。けれどフィーリアはまるで泣きそうに顔を歪ませ、空いた片手でオルカの頬を優しく撫でた。くすぐったい。胸の奥がどうしてか狭くなったみたいにちょっと苦しくなった。
「怪我はない? 嫌なことされなかった?」
「むー……うんっ。大丈夫だよ! ちょっとね、嫌なことはあったの。でもオルカ負けなかったんだ」
 笑って欲しくて、オルカはフィーリアの手を一層強く握りしめて大きく笑った。
「あのね、オルカ、とっても良いこと知ってるのっ」
「いいこと?」
「そう。ふふふーリアお姉さんだから、教えてあげるのよ」
 フィーリアはゆるゆると眉を開き、なあに、と柔らかく尋ねてきた。ほっとした。あのね、とうれしさに声がもっと弾む。
「フージャがね、来てくれたの」
 フィーリアが軽く目をみはった。
「ここにきたの?」
「んーんっ! お姉さんとエルテノーデンから連れ出されたときね、オルカ途中で目が覚めたの。でも上手に起きれなくて何もできなかったんだけど、でも周りの音は聞こえたの。そこでフージャの声がしたの!」
 間違いなかった。聞き違いなんてあるはずがない。パラファトイにいる間ずっとずっと聞いていて、そうしてずっと聞きたかった声だから。
「騎士のお兄さんの声も聞こえたのよ」
「クランが?」
「そう! だからね、きっときっと来てくれるのよ」
 目を瞬かせるフィーリアに、オルカね、としずかに続けた。
「反省したの。ずっとオルカ泣いてばっかりで何にもしなかった。でも、フージャそれじゃあ困っちゃうよね? オルカお家でお手伝いしたとき、すごくみんな喜んでくれたの。お客さんじゃないって言ってくれたのよ。オルカ、すっごくすっごくうれしかった」
 自分が何かをすることが、きちんと誰かの役に立つことだと初めて知った。自分で考えて、行動するのはとっても大変だけれど、でもとても心が沸き立つことだった。
 どうして忘れていたのだろう。
 どこかでフージャがひどいと思っていた。助けに来てくれないと、諦めていたように思う。けれど彼はちゃんと来てくれた。また会いたい。会ってお話ししたい。
「オルカ自分で動いて、そうしてフージャに会うのよ」
 フィーリアは大きく目を見張ったまま、呆然としている。オルカはぎゅっとエルフの手を握った。顔を近づける。
「だからオルカ頑張ったのよ。たくさんの人がオルカのまわりにずーっといるから、こっそり何度も抜け出したのっ。いろんなところに行ってみて、お姉さんを探してねっ。でもいっつも見つかっちゃうの。ひとり、すごーく嫌なひとがいるの。こーんな」
 オルカは両手で自分の目尻をつり上げた。
「目をしてて、すっごく意地悪なひとなのよ。いつもオルカの邪魔をするの。お姉さんを探そうとすると、どうしてか現れてお部屋に戻すのっ。何度やっても絶対いるのよ。だからオルカ庭を通ったりね、小さな部屋を通ったりね、色々行ってみたの」
 どうやってフィーリアを探そうとしたのか、オルカは思いつくままに語り続ける。堰切ったように言葉があふれてきた。どうしてこんなこと言うんだろう、と自分でもわからないままに、これまでの日々を追っていく。
 オルカ、とフィーリアが小さな声で呼んだ。あのね、あのね、と続けるオルカの頬はふたたび柔らかく撫でられた。目の端を細い指が拭う。オルカ、と呼ばう音には〈雨〉の温かさが宿っている。
「泣かないで」
 オルカは驚いて顔に触れた。濡れている。
「あれ? ……あれれ?」
 慌てて何度も目を擦った。びっくりした。どうしてだろう。哀しいわけじゃない、むしろフィーリアに会えてうれしい。けれど、止めどなく涙があふれてくる。
「なんで泣いてるんだろう? あれれ?」
 困惑するばかりのオルカを、フィーリアが格子越しにそっと抱きしめた。鉄棒に鼻が押しつけられる。つんと鉄の臭いがした。押しつけられた頬も冷たい。でも、背中に回った腕であったかく感じた。
「ひとりでよく、頑張ったね」
 オルカはフィーリアの袖を握りしめた。
「フージャに会いたい……」
 もう一度『お家』に戻りたい。
 フィーリアは少し黙ってから、そうね、と囁くような声で応えた。そうね、戻りたいわね、と。そうしてオルカをなだめるようにそうっと髪を梳いていった。
 その時だった。突然階段の方から、壁に物を打ち付ける音がした。はっとしてふたりで顔を向けると、足早に男が向かってきていた。さっと血の気が引いていくのをオルカは感じる。あの、嫌な男の人だった。
 彼は見たことがないくらい怖い顔をしていた。お腹が竦んだ。フィーリアの腕に力がこもるのを肌で感じる。見上げると、フィーリアの目もひるんだように、けれどじっと彼を睨みつけている。
「ずいぶんと職務をお忘れのようね」
 彼は答えなかった。ただ黙ってフィーリアの手を捩じり上げ、オルカを強引に引きはがす。やめて、とあがったフィーリアの悲鳴を男は舌打ちをして早口に制す。
「しずかにしろ」
 伸びてくるフィーリアの手を払って、オルカの二の腕を掴んで強引に連れて行く。階段ではなく、もっと奥の続きの間にオルカを押しこむ。体を強ばらせたまま二の句も継げないオルカに男は眉をひそめ、より物陰に押しやった。よろけるオルカに手近にあった布を放り投げ、隠れろ、と小声で告げる。
 そうしてすぐに身を翻して部屋を出て行く。どういうことだ。呆然としたオルカは震える手で布を払いよけようとした。元の部屋からフィーリアと男が言い争う、鋭い声が聞こえてくる。
「どういうこと!? あの子は何も」
「お前の言い分など聞いていない。彼女が何者か知っているだろう。お前に聞きたいのはそれだけだ。何者だ。人か、獣か、それともエルフだとでも。答えろ」
「どういう意味? それとこれとは話が違うわ」
「いいから答えろ。お前は何を隠している」
「隠す? いいえ違う、それはあなたのほ――」
 ふいに声がとぎれた。息をのむ音が聞こえて、布からはい出そうともがいていたオルカはぴたりと動きを止めた。どうしたのだろう。思った直後、男ではない低い声が耳に触れた。
「随分と威勢がいいな」
 オルカの心臓は今度こそ暴れ馬のようになった。聞いた覚えのある声だった。王様。ジノブットの王様の声。
「手間取っているようだな」
「申し訳ございま――」
 鈍い殴打の音が聞こえた。壁にぶつかる音も続いて響く。身がすくんだ。息をすることさえ恐ろしく感じる。耳ばかりが鋭くなってくように思われた。
「どれだけ手間取っている」
「……申し訳ございません」
 オルカの吐いた息は震えていた。彼は、殴られたのだろうか。
「それでだ。エルフ、単刀直入に言おう。取引をしないか」
「……取引?」
「俺の欲する物を答えろ。そうすればいかようなものでも与えよう。金か? 女――ちがうな、男か。土地か、家か。何が欲しい。何でも与えてやろう」
「欲しい物など……」
 フィーリアが眉を寄せている姿が簡単に思い描けた。けれどそれを、王の哄笑が粉々に打ち砕く。嘘をつけ、と声高に嘲笑うと、鉄格子を掴んだのか鉄のきしむ音が響く。
「エルフ。お前たちは何も手に入れられないと聞く。森を追われ、何ひとつ欲しないなどとあるものか。物が欲しいわけではないなら、苦痛か。お前を追ったものに復讐を与えようか。炎を放ち、家を壊し、槍を持って裸で放逐するか」
「そんなこと……!」
 声が揺れているのは、その想像の恐怖感なのだろうか。わたしは、と震えを引きずりながらフィーリアは続ける。
「そんなこと、望んでいない。わたしは」
「善良なことだ。苦痛を与えない? 笑えるな。誰への義理立てだ。それとも何か、元の居場所にでもいつか戻れるとでも思っているのか?」
「――戻らずとも故郷よ」
「あほうの極みだな。その故郷が! お前を裏切った。ここは汚いか。寒いか、苦しいか。それはすべて故郷がお前を放逐したことで苦痛が与えられているんだ。なぜ復讐しない。なぜ牙を剥かない。喰われるためだけに生きていたいのか」
「……いつかは、戻れるかもしれないわ」
「お笑い草だな。そんな些細で惨めな望みに縋って生きていくのか」
「放っておいて……! 私が何を望もうと勝手だわ!」
 ふいに鉄格子が打ち鳴らされた。その激しい音にオルカは体を跳ねさせた。心臓が口から飛び出していきそうだった。
「――言ったな」
 低い声で、王は歌うように呟いた。数拍ののちにフィーリアが呼気まじりに、どういうこと、と問いかける。愉快そうな王の笑いが響く。
「『戻りたい』。いいだろう、戻らせてやろう。お前に森を与えてやる」
「どういう意味……?」
「なに、簡単だ。エルテノーデンを攻め落とせば良い」
「ばかなことを」
「そうか? この何百年と戦のなかった〈冬の地〉にあってうちは内乱続き。戦は大得意だ。それに外からの情報もある。加えて、こちらには『自分でジノブットに逗留すると言った』〈雨の御子〉もいる」
 見物だろうよ、と王は笑った。
「〈雪〉に毒されていくのを黙って見ていれば良い」
 フィーリアが引きつった声で、非道だわ、と力なく呟けば、褒め言葉だなと揶揄含みで声をあげる。狼なのに、とオルカは思った。くつくつと、まるで猫が喉を鳴らすみたいな愉快そうな音だった。
「かまうものか。〈角の地〉すら引き落としてやる」
「神罰を受けるわ」
「神罰! 楽しみだ。〈角の主〉は慈悲の神だが、さて、どんな罰をもたらすのか」
 悠然と笑って王は、テオバルト、と声を張った。
「そういうことだ。下手なまねはさせるな。今まで通り『丁重に』もてなせ」
「……御意」
 声高な靴音が遠ざかっていく。
 沈黙が流れた。呼吸一筋だけでまた王が気づいてしまうようにさえ思えて、オルカは身を縮こまらせたままずっと布の影にいた。
 こつり、とささやかな靴音が小部屋に近づく。びくりと体を強ばらせたが、布を引きはがしたのは目つきの悪い彼だった。思わず息が弛む。けれど何かされるのでは、と思いにわかに体は固くなった。
 蝋燭の光を背負い、顔に影を落とした彼は細く息をついたようだった。オルカの腕を引いて立たせると、行くぞ、とささめきフィーリアの前を通って階段へと向かっていく。王はすでにいないようだった。
「待って! オルカに何を」
「部屋に帰すだけだ」
「……どうして、王の目から隠したの」
 歩みが止まらないように見えたが、男は少し足を緩めた。引きずられるように歩いていたオルカはたたらを踏んでその背にぶつかりそうになる。慌てて見上げると、彼の口の端には血がにじんでいた。痛そうだった。
 彼は少し目を伏せたあと、フィーリアを振り返った。だが結局何も言わず、そのままオルカを引いて階段をあがっていった。


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