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六  山麓の色は


 夜気の滲む空気が流れていく。砂の国は陽が落ちれば、昼間とは打ってわかって寒さがとぐろを巻く。それを知ったのは初めてこの国に訪れた十つのときだっただろうか、とテオバルトはぼんやり思った。
 月が薄い。雲がかかっているようだ。窓から落ちる淡い光に、外を見ようと寝返りを打つ。その拍子に、右耳の下から頬にかけて鈍く痛み、思わず顔をしかめた。
 まったく馬鹿なまねをしたものだった。
 頬に手を当てて嘆息する。誰からにしろ、叱責を受けるのは久方ぶりであった。幼い時分には自身の立場をよく知らず、他の年長者から叱責をよく受けたものだ。尽きない怪我にシハーブがよく腹を抱えて笑っていたのを思い出し、うんざりと手を放す。
 なぜあんな魔をさした行動に出たのか。昼間の自分の心情を今でも持て余していた。
 オルカをあそこまで案内をしたのには理由があった。彼女たちの会話を聞くことで何かしらの新情報が得られるかと思ってだ。見え透いた罠だったろうにオルカは簡単に引っかかり、彼の思惑通りに女のもとまで足を運んだ。
 しかし、さして重要な話はなにも聞く事ができなかった。
 そうして王と鉢合わせをしたのだった。彼が来たのは予想外のことだった。何事も自らの手でやりたがる王らしいと言えばそうだったが、はた迷惑なのには違いない。おかげで予想外の怪我を負った。
 本来ならこの傷は負わなくてもすむものだった。なのにどうしてオルカをあの場でかばったのか。確かにオルカをあの場に連れてきたのは独断だ。王に叱責をされかねない事項だが、他にも取り繕いようはあるはずだった。直前に、声を聞いてしまったからだろうか。
 家に戻りたい。
 自分にすり切れたぼろ布のような郷愁がまだ残っていたことが驚きだった。かさぶたが覆っていただけだったのかと思うくらい、じくじくと鈍く胸の奥底でうずいている。
 新雪が降った次の日だった。固い木の小屋から出て行く男の後ろについて家を出た。朝早くに父と兄たちはいつもの通りに狩りに出て、残っていたのは母親と妹だけだった。丘を下る前に少し振り返ると、妹が家の外まで見送りに来ていた。新雪が白んだ陽光を弾いて、表情はおぼろげにしか見えなかった。
 街へ出て、船に乗り、そうして荒野を渡って〈冬の地〉に来た。数えれば、もう十年ほどにはなるのだろうか。月日は性急で、おかげで記憶は津波に押し流されたよう散らばり、色あせたがらくたのようだった。
 砂の地での日々が強烈すぎたのもある。しんしんと積もる雪の音を聞いていた時分に、こんな血なまぐさい生活を送ると誰が予想できただろう。
 どれだけ優遇されていても、テオバルトの身分は奴隷だった。他者に買われ、他者の道具にすぎない。主人の意思をかたちにするためだけの。
 ――オルカは、どれだけ囚われようと、「道具」ではなく自らの意志で動こうとしている。
 それが眩しくも、息苦しくもあった。羨望に近く、けれど微かに疎ましい。彼女はきっと、求めてもすがっても得られない、砂で満たそうとするほどの飢えを知らない。
 ふと、白雪の光にまぶされた妹と重なった。
 もう戻れないことはわかっていた。十年の間に陽をたらふく吸った肌が物語る。白い肌の雪国には溶けこめまい。第一どこにあるのかさえ定かではなかった。そうなればこの地で生きていくしかなく、結局は王を頼らざるを得ない。奴隷から解放されても事実は消えない。与えられた学は職になるようなものではなく、戦以外できることはなかった。
 死にたくなければ、どうしてもここで生きていくほかはない。それが人ではなく、道具であったとしても。
(ならば、どうして〈雨の御子〉を突き出さなかった)
 あのエルフの女にも問われたことだった。なぜ。そんなこと、と低く呟いて拳を握りしめる。
 他の誰より、自分が知りたかった。
 ため息を吐いて、寝台から身を起こした。外へ目を這わせたテオバルトは、そこにちらちらと過るものに目を止めた。しっかりとした足取りで窓に近づく。
 見下ろした先の中庭で、松明の明かりがいくつもうごめいていた。
 何かあった。その思考を切り裂くように、警笛が夜空に鳴り響く。
 ――敵襲。


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