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八  囚われの身の上


 夜を徹してのくせ者狩りは、結局ののち徒労に終えた。
 テオバルトたちから逃れた侵入者は、その後も警邏の網に引っかかったが、捕縛されることなく姿を消した。あれ以後に得体の知れない光は使われなかったが、その光を何人も目撃していたおかげで、テオバルトたちへのお咎めはなかった。
「ありゃエルテノーデンが最近使いはじめた奴じゃねえか……」
 まともに光を浴びて目をいためた様子のシハーブが、苦々しく言った。確か魔法つったっけな、と眉間を揉み解す。まだ普及前のそのような品を持つとなれば、国家の軍事に携わる者に違いなかった。シハーブも、エルテノーデンで会った兵士の声だったと証言した。
 ただ人相までは出会いが暗がりであったことも手伝い、ふたりとも曖昧だった。都に手配される指示書もぼやけ、犯人はおそらく捕まらないであろうことは誰の目にも明らかだった。
 この件を期に、王はオルカの身の安全を確保するためと称し、オルカの行動範囲をより制限させた。見張りを強化し、オルカの周りは一層の厚い人だかりに覆われるようになった。
 これでもう〈雨の御子〉も逃亡しないだろう。テオバルトは密かにそのことに安堵した。
 理由は考えたくなかった。これ以上の悩みの種は欲しくない。
 そんなこちらの思いを斟酌せず、生垣からひょこりとオルカが顔を出したのは、夜警から一週間ほど経った日だった。
 ぱちぱちと瞬かせる金の目を見て、ため息がこみ上げる。
「また、ですか」
 なぜ遭遇するのは自分ばかりなのか。中庭を通ることが悪いのかと自問する。眉間によった皺に、オルカはちょっとひるんだようだったが、すぐに立ち上がって服の乱れを整える。
「むー。今日はね、違うの」
「何がですか」
「今日は、その、お兄さん? に会いにきたの!」
 テオバルトはわずかに首をひねった。あのね、と言ったオルカがぱっと顔を華やがせ、後ろ手に隠していた物をテオバルトの鼻先に差し出した。
「はいっ。あげるっ」
 淡い黄色の花だった。花弁が細く幾重にも重なり合う小さな花は、大振りな大輪を咲かせるこの庭にあってはひどく華奢に見えた。ゆっくりと目を瞬かせるのはテオバルトの番だった。
 風がふうわりとそよぐ。受け取られない花が頼りなく傾いだ。ふと心細そうにオルカの眉尻がさがり、いらない? と小さく呟いた。
「……どうしてですか」
 自分の胸にも達しない少女を見下ろすと、少女は不思議そうに首を傾げる。
「だって痛そうだったから。……ほっぺた、もう痛くない?」
 腫れはもう三日ほど前から引いていた。肌が浅黒いことも幸いし、痕もよくわからない。近日中に怪我したことさえ忘れると思われた。なのに、なぜだろう。今だけ鈍くうずいた気がした。テオバルトはオルカの目から花に視線をそらした。
「平気です」
「そっかあ! よかったっ。とっても痛そうだったからオルカちょっと心配だったの。お兄さん、ちょっとだけ、ちょーっとだけ優しいかもしれないから!」
 大分ひどい扱いだとも思ったが、オルカの視点から見ればそのようなものだろうと納得させる。別に〈雨の御子〉から格別の扱いを受けたいわけでもない。優しくないと言われたことに傷ついた気がする心にテオバルトは慎重に蓋をした。
「オルカね、フージャに聞いたのよ。こういうの、お見舞い、っていうんでしょ?」
 テオバルトの心臓が一瞬、強く跳ねた。
「だから綺麗なお花を摘んできたのっ。ほんとは、もうちょっと早く来たかったんだけど……人がいっぱいいて」
 唇を尖らせたオルカは、ぱっと顔をあげた。
「そういえばこないだの夜、みんな夜更かししてたのね? どうして? 何かあったの?」
 いえ、と答える声がひどくざらついているように思われた。言えるはずもない。彼女を攫いにきた人間がいた。それも同じ『フージャ』だとは。瞬く間にひも解かれた記憶のうち、そういえば牢屋で言ってはいなかったか、と気づく。フージャに会いたい、と。
「ふうん……何か楽しいことがあったんじゃないの?」
「は」
「だってお家で夜更かしする時は、すっごくオルカ楽しかったの!」
 目をきらきらとオルカは輝かせた。テオバルトはわずかに躊躇い、だが躊躇う己を叱咤して言葉を継いだ。
「それは、パラファトイでですか」
「そうよー。オルカ、パラファトイのみんな大好き!」
「……フージャとは、誰ですか」
「ん? フージャはねー、オルカにすっごく優しくしてくれた人! 港からね、オルカをお家に連れて行ってくれて、『家族』にしてくれたの!」
 テオバルトは慎重に息を吸いこんだ。オルカがパラファトイからエルテノーデンに渡ったことは知っている。「フージャ」とオルカが懇意だったからと知って、何の根拠になる。〈雨〉をもたらすことも、〈雪〉をもたらすことも根拠にはならない。
 ただ、オルカには戻れる場所があると知っただけ。
 強い陽射しが見せる蜃気楼だろうか。丘の上に立つ、妹の姿が。渡ってくる風に髪を煽られながら見下ろしていた妹が、オルカに重なって揺らめいていた。
「お兄さん?」
 きょとんとするオルカに、テオバルトは微かに首を振った。腹の底で何かが重くとぐろをまいて沈んでいる。見知らぬ振りをしたくて、テオバルトは差し出されたままの花をそっと受け取った。
 どんな言葉を言うべきか。悩んだ挙げ句、感謝します、と小さく告げた。
 テオバルトを懸命に見上げるオルカの顔が、柔らかくほころんだ。
 くるりとオルカは背をむけて、勢いよく自分の宮へと走り出す。だが途中で大きな声をあげて立ち止まった。テオバルトに一度大きく手を振ると、あとは振り返ることなく駆け抜けていった。
 残った手元の花だけが、さやかに揺れた。
 捨ててしまいたいと思った。重かった。もう子どもではない。なのに、小さな花一輪をなぜ初めて握った湾刀のように感じるのか。
 だが、嬉しげに笑った少女を思えば捨てるわけにもいかず、テオバルトは宿舎の部屋にひっそりとさしておいた。外から吹く風で、どうせ砂にまみれてしまうだろう。
 果たしてそうなるのを望んでいるのかは、わからなかった。
 義務を、果たしてしまおう。そう思い、テオバルトは足早に歩を進めた。どうでもいいはずだ。与えられた任は彼女が〈雨〉を降らす方法。そして、その制御方法。もしも〈雪〉をもたらすのであれば、それを報告すればいいだけのこと。
 自分は、主の意のままに役目をこなすだけ。そこに、自分の意思はいらない。
 暗がりに落ちきるようにそこは底冷えした。階段を下ると、部下の少年が飽いたようにあくびをかみ殺していた。驚くように眉をあげて、ゆったりと椅子から立ち上がって敬礼する。ふたりだけにするように告げると、器用に片眉だけをあげてから顎を突き出すように頷いた。
 足早に階段をあがっていくのを耳だけで見送り、テオバルトは鉄格子越しに女に相対した。
 しばらくの間、ただじっと立ちつくした。なかなか口火を切らないテオバルトに、女はちらりと目を走らせ、出会うとすぐに反らした。拳に力がこもるのが見えた。それでもテオバルトは口を開かず、じっと女を見据え続けた。
 耐えきれなくなったように、何の用なの、と女が口を開いた。寝台に腰をかけたまま膝をテオバルトへ向けてくる。
「オルカのことを聞きたいの」
 問う声には疲れが滲んでいた。テオバルトは微かに頷いた。女が気だるげに息をつき、細く笑った。聞いてどうするの、と女は小さく尋ねた。はじめて尋ねられる質問だった。テオバルトはつと視線を落とした。
「王の命令だ」
 女が苦笑する気配がした。ゆっくりと立ち上がるのがゆらめく裾でわかった。
「腫れ。引いたようね」
「そうだな」
「痛みはないの?」
 ない。簡潔に答えれば、そう、と返る。何が言いたいのだろう。そんなことまでされても従うの、と言外に響きを感じるのは穿ち過ぎか。まさか心配ではあるまい。女がされたことを思えばその理由はどこにもない。
 ――だがそれは〈雨の御子〉も同じだったはずだ。
 振り切るように、テオバルトは鉄格子を乱暴に掴んだ。鉄のうなり声に、エルフは体に細波を立てた。微かに過った確かな怯えを見逃さず、テオバルトは目に険を含ませる。
「〈雨の御子〉のいる場所にはなぜ〈雨〉が降る」
「……前も言ったはずよ。あなたたちはどう考えているの、と」
「〈角の主〉に寵愛されたからか。ではなぜ今までそれが見つからなかった。獅子の王はなぜ彼女が〈雨の御子〉と確信できた」
「王にお考えを聞かなければわからないわ」
「お前はどう考えている。天測師」
 エルフはふいと顔を反らした。〈雨〉が降った、それで十分、とうそぶく。
「戦の時点であの少女が〈雨〉を降らしているとエルテノーデンがわかるはずがない。挙兵には理由があったとしか思えない。〈雨〉に関して、長寿で天測師のお前が何も掴んでいないはずがない」
「……随分高く買ってくれているようで嬉しいけれど、わたしはそんな」
 大層なものじゃない。苦笑を帯びる声でエルフが煙に撒こうとするのを、テオバルトは打ち切って声を続けた。
「あれは〈雪〉をもたらすのか」
 まるでエルフは〈雪〉が這ったように動きを止めた。
 テオバルトは短く息を吸う。肺をかき乱すのが、臭いか思いか定かではない。鉄格子を一層強く握りしめた。
「クランという男を知っているか」
 その言葉に女は凝りが溶けたように、ゆるゆると目を見開いた。つたなく名前を唇だけたどるのが見ていてもわかった。頑に閉まった扉をようやくこじ開けた気がした。
「フージャ。この名前も知っているか。彼らが言っていた。〈雨の御子〉は〈雨〉ではなく〈雪〉をもたらすと」
「……いつ、のこと?」
 問うて、エルフはすぐに首を振った。女はまろぶように足をだした。
「この一週間以内ね? この間までそんなこと言わなかった。オルカが来たあとに、クランたちがジノブットに来た。あなたが会ったということは図って呼び出した……いいえ、きっとそんなことしないで、乗りこんできたんだわ。そこで出会った。ちがう?」
 眉を顰めたテオバルトが、だが否定しないことに勢いづき、やっぱり、と女は笑った。はじめてみる朗らかな笑みだった。
「クランが、来てくれたのね……」
 万感の思いがこもった呟きに、テオバルトは居心地悪く身じろぎをした。だが、ふと顔を訝りに染めてエルフがこちらを見定めとき、何か嫌な予感がした。
「待って。どうして?」
「……何がだ」
「どうしてあなた、王に何も言わなかったの。あれが来る可能性があると、どうして」
「報告をしていないと考える理由は」
「あれのことよ。急ぎ処置をしないはずがない。少なくともすぐさま私のところに何かしらの処置があったはずだわ。ましてあの国王陛下なら即日に行動なさるはず。取引など悠長なことはされない。だとしたら、あなたは報告していないのだわ」
 内心舌打ちをし、だが表面上はそうと悟られぬよう冷たく女を見返した。
「あやふやなまま奏上するわけにもいくまい」
「あれがもたらされる。覚悟していたならともかく、危険性だけでも十分報告の価値がある」
「あいにくと〈冬の地〉出身ではないからあれには感覚として鈍いらしい」
「嘘ね。あれへの恐怖は出身なんか関係ないわ」
 にべもなく女は切り捨てた。少し探るように首を傾げる。
「躊躇う理由があるの? 王のために〈雨〉の降る理由を探るというあなたに」
「何もない」
「ではどうして? 伝えなくて安全になるのはオルカだけ――」
 テオバルトは鉄格子を放し、関係ない、と吐き捨てた。だが女はひるまなかった。ひたとテオバルトを見据えてくる。強い眼差しだった。
 ふたたび重く沈黙がたれこめる。喉の奥まで塞いでくるような気さえするのに、逃げることさえままならず、テオバルトはじっと立ちつくしていた。何か言うべきだ。だが、取り繕う言葉さえ出てこない。
「いいわ」
 まるで許しのよう、厳かに女は言った。なぜ〈雨〉が降るのか、教える。
 緊張の色濃い顔に、テオバルトは掠れた声でなぜと問うた。
 女が語ったのは長い物語だった。夢物語にしか思えないそれに、テオバルトは眉をしかめて首を振った。信じられない、という問いかけに揶揄はひとかけらもなかった。でも本当よ、と静かに説いた。
「――なぜ言った」
 エルフは少し躊躇うように目を揺らした。腹の前で両手をそっと握りしめる。
「オルカを、助けて」
 階段をのぼり、まとわりつくような闇から抜け出しても、女の声が耳の奥でたわんで反響し続ける。凶暴な昼の日差しがさんさんと降り注ぐのに、まだ心は地下に置き去りのままのようだった。
 信じられるはずがない。
 エルフに直接話を切り出すために離れさせた部下が、柱廊から出てきたテオバルトをつかまえた。苦虫をかみつぶしたような顔で彼は告げた。
「東門のほうに〈雪〉がついたようです」
 テオバルトは柄をきつく握りしめた。日差しがなぜか急速に温く感じられる。
 幾重にも重なりあった女の声が耳の内側を打ち鳴らしていた。
『オルカは、〈冬の女神〉なのよ』


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