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九  戦禍を謳え


 王の居室に呼び出されたとき、テオバルトはこれまでにない緊張を感じた。
 乱雑に放られた書物のなかで、王はあぐらをかいて書を読みふけっていた。入ってきたラカンヌを一目見たが、すぐ興味のないよう膝のうちの書に目を落とす。しばらくテオバルトが跪拝をして待っていると、切りの良いところへ来たのか、書を勢いよく閉じた。立ち上がる。
「戦をする」
 ひどくあっさりとした物言いだった。
「オアシスから要請があった。エルテノーデンが自治を荒らして困っている。それを見過ごすのは人道にもとるのでな、こちらからも派兵することを請け負った」
 嘘だろう。テオバルトは複雑に織られた絨毯の綾に目を伏せながら思った。オアシスにて内輪もめがあったことはシハーブからも聞いた。だが、エルテノーデンが干渉している話は聞いていない。よしんばそうであっても、自治を望むオアシスが現段階でジノブットに打診してくるとは考えにくかった。大方、キファーフのごり押しだろう。
 テオバルトの内心を気にした風もなく、王は言葉を継いだ。
「よって、お前に与えた任を解く。アギフに従い部隊の編成その他、つつがなく戦に備えよ」
「御意」
 反射的に応えるも、直々にお達しがきたのは奇妙だった。テオバルトの階級はさして高くない。正式に部隊入りする前の小姓時代ならともかく、今では滅多に拝謁する機会などなかったはずなのに。
「が、その前にお前にいくつかしてもらうことがある。まずひとつ」
 王は笑って腰に手を当てた。
「あのエルフは何か話したか?」
 心臓が捩じり上げられたように痛んだ。跪拝をしていてよかったと思う。顔色が一瞬変わったことを王に見られなかったからだ。
「いえ……」
「『丁重に』と言った言葉でも馬鹿正直に受け取ったか。まあよいわ。今回の挙兵の件、告げてやれ。約束を果たすから忘れるなよ、とでも付け加えておけ」
 思わずあっけにとられた。オアシスへの挙兵はただの退屈しのぎかと思われたが、そうではない。このままエルテノーデンへ攻め入る口実のためなのだ。あの言葉は戯れ言ではなかったのだ。
「これで何か話すならそれで重畳。なくてもかまわん。報告だけ入れろ」
 それからふたつ目は、と言って、王はテオバルトが跪拝したままだとようやく気づいたようだった。ああ顔を上げろ、と気のなく手を振る。テオバルトは粛々と従った。
「ふたつ目だが、〈雨の御子〉に願い出てもらいたい事項がある」
 テオバルトは思わず驚いた顔をした。その表情を王は予期していたように、あるいはそれこそを望んでいたようにとっくりと眺めた。
「最近〈雨の御子〉と親しいと聞く。事実か」
 そのような覚えはなく、テオバルトは眉を寄せて首を振った。むしろ幾度とも連れ戻すことのせいで心証的にはよろしくないはずだ。だが王は短く笑い飛ばした。
「逃げ出してばかりの御子がどうしてお前のところばかりに現れる。しかも最近はお前のことをよく聞くと小姓ども言っていた。そんな手練手管があれば御子づきのやつらにも享受してやればよかろう」
「……偶然です。なにもありません」
 知っている、と途端に興をそがれたように言って、昔からお前には融通が足りん、とあながち揶揄ではない口調で呟く。
「それはどうでもよい。御子に伝える事柄だが、この戦に際し、今後のため兵の拡充を図る。民衆より金子をもっての徴募、その参加をうながす集会を開催する予定だ。それに御子を出席させる。〈雨の御子〉として兵の士気をあげさせるような言葉が欲しい。――前回のようなくだらないやり取りは避けたい。言い含めさせろ」
 わたしがですか、と喉まで声が出てかかったが、まるで蜘蛛の巣に絡まったように言葉が出てこない。テオバルトの前に立つ王の目が半眼となり、底光りしているように見えるからだ。
「ただでさえ、あれがついた。建国祭以降〈雨〉も降らん。……今のうち〈雨の御子〉に相応の存在感を放ってもらわねば、喧伝したこちらの威光にも関わる」
 東門の地中より出でた〈雪〉はいまだ溶けず、一画を覆っている。石の隙間にも入りこむため、門がいつ瓦解するのかと人々は怯えていた。〈雪〉に関することは箝口令が敷かれているが、すでに都には重たい空気が流れはじめていた。
「あれは本当に〈雨の御子〉か。でかい猫にガセでも掴まされたか……」
 狼の獣人は鋭く舌打ちをした。ふたたび腹の底がぞっと冷える。
 王をなだめる意味でも、少女の〈雨〉との関連を口にしてもよかったのに、胸のうちで言葉は空回りした。テオバルトは拳を強く握った。
 まさか、あの女の言葉を信じているのだろうか。
「どちらにしろ戻れん。――さっさといけ」
 王はテオバルトを置き去りに、居室を去った。沈黙が残った部屋でテオバルトは俯いて、御意、と小さく言葉を置いていく。
 嘘をついてまで、なぜ言わないのか。テオバルトは鉛のような足でオルカの逗留する宮に向かいながら自問を繰り返した。
(そうではない。ただ、確信が持てないだけだ)
 反論の声は弱々しい。違うでしょう、という女の毅然とした声が耳に切りこんできそうなほどだ。
 女が語ったことは正しい。少なくとも、王の耳に入れる程度はするべきだ。〈雪〉に関しては何かあってからでは遅いのだ。
 だが、誰が信じられるというだろう。ただでさえ、テオバルトには〈角の主〉の存在も曖昧に思えるのだ。耳にしたことのない〈冬の女神〉などというのが実在するとは到底信じられなかった。
 ついたばかりの〈雪〉より、幾度も動きに沿って観測されている〈雨〉のほうがよほど関わりあるように見える。もっとも、その〈雨〉すら〈雪〉を押さえるためとエルフは言った。そうなれば、どちらも起こりうるから、どちらが原因か確信は持てない。
(……違う。問題は、俺が信じるかではない)
 オルカがたしかに〈雪〉と関わりがあるかどうかでもない。問題は、自分自身がそれを王に告げないことにあった。
 オルカが〈雪〉と関わりがあると知らせたとして、テオバルトはそう不利益を被らないはずだった。むしろ今の役目からは外されて自由となる。エルフの尋問はずっと上のアギフ千騎長が引き継ぎ、オルカもまた幽閉されるであろう。
 たばかられていたのかどうかは、時間が流れとともにはっきりしていく。何もなければテオバルトの評価が下がるだけ。事実であれば、少女が殺されるだけだ。
 だが、どちらであってもテオバルトは助かるのだ。
(ならば、俺は王に奏上すべきだ)
 一蹴されるならそれはそれで良い。判断は王にある。
 ――理性ではわかるのに、行動に移すことはできなかった。
 同情をしているのだろうか。そうだろう、とテオバルトは思う。自分が小動物だのにすぐ心を移すきらいがあるのは自覚している。ついかつての妹が重なるのもその一因を担っていた。
 だから〈雪〉と関連を王に告げて危険にさらすのを恐れているのだろう。
(だが、それだけだ)
 テオバルトは拳を握りしめた。
 果たしてエルフは、本当にテオバルトが助けると思っているのだろうか。だとしたら、随分と浅はかな考えだ。〈雨の御子〉を攫えばどうなるかなど自明のことだ。エルフがどれほど信頼に値するかもわからないのに、己の命を賭けられない。まして。
(少し関わっただけだ。……なのに自分の命より重いと思えるわけがない)
 同情で全てをなげうてるほど、自分を軽んじた覚えはない。
 だが今の今まで言えない以上、保身にも走れないのは事実だった。堂々巡りに陥る思考にテオバルトは鋭く舌打ちをする。
「……くだらない」
 なぜあの女の話を信じようとしているのか。根拠がないと断じたのは自身ではないか。
 〈雨の御子〉であって何が悪い。多少の不自由はあっても保護は受けられる。飢えることも、乾くことも、蔑まれることもない。むしろこぞって民は少女にあらゆるものを捧げるだろう。建国祭より〈雨の御子〉のためになら何でもすると気炎をあげる者は後を絶たなかった。〈雨の御子〉であればそう愛され続けるのだ。
 ジノブットは〈雨〉により栄えるだろう。ずっと死地を共にしたテオバルトの仲間も、十分その恩恵は受けるはずだ。
 叶えられないのは、ただ少女の願いだけ。
 フージャに会いたい、という呟きが耳に蘇った。
(俺は嫉妬しているのか)
 戻る場所のある少女に。〈雪〉を運ぶと知っても迎えにくる人がいる少女に。
 速めていた足から力が抜けて、ゆっくりとテオバルトは止まった。強風が吹き抜け、剥き出しの肌を砂が叩いていく。
 これほどまでに自身が過去に執着しているとは思わなかった。今更父を、母を恋しがるような年ではなかったはずだ。記憶は風化して、ろくに顔さえ思い出せないというのに。
 重い足を引きずるように動かし、宮に到着した。小姓に訪れたわけを告げると、彼はテオバルトに怯えるように慌てて奥へと取り次ぎにいった。管理者の許可をとった小姓に連れられてその室内に入れば、オルカは絨毯に足を崩して外を見やっていた。婢の耳打ちに、ぱっと入り口を返り見る。
「お兄さん?」
 驚いてぴょこんと立ち上がったオルカは、しかしテオバルトの顔を見て忙しなく瞬きをした。少したじろいで首を傾げる。
「怖い顔ね? 眉の間にお皺がいっぱい」
 テオバルトはつと息をとめ、細く長くため息をついた。不思議そうな顔をするオルカに答えず、ゆっくりと近づき絨毯にあがらず膝をつく。色のない表情を保つよう心がけながら、本日は、と切り出す。
「王よりのあなた様あてに伝言を承りました」
「王様から……?」
 テオバルトは首肯し、王からの言葉を淡々と告げた。オルカは思いもしなかったような、あっけにとられた顔をしていた。して頂けますか、と問うと、夢から覚めたようにオルカははっとした顔をした。顔色を変えて、ゆっくりと、次第に速く首を振る。
「やだっ! オルカ、そんなことしない!」
「……王命です」
「やだー! 絶対やだー!」
 勢いよく立ちあがったオルカは、だって、と涙ぐんだ声で続けた。服の裾を強く握りしめる。部屋の隅に控えた婢や小姓が困ったように目を見交わしあわしていたが、テオバルトは気にしないようにした。ただ黙ってオルカの言葉を待つ。
「っ、とにかくやだから!」
「従って頂きます。そういう王と約束をされたはずです」
「してないもん! したのは、オルカがみんなの前で言うだけだって……」
 言葉尻がすぼんでいく。オルカは迷うように視線を落とした。オルカと王が約束としたのは、〈雨の御子〉として振る舞うこと。そして、それに付随するすべてだ。おそらくはエルフを助けたい一心で頷いただろうから、まともに飲みこめていなかったに違いない。
「エルフの方が大事でしょう」
 オルカはしばらく動かなかったが、おもむろに顔をあげると、きらい! と叫んだ。
「きらいっ、きらいっ! だいっきらい! お兄さんすっごくやな人だ!」
 テオバルトは静かに目を伏せた。
「王よりこの戦に参戦するよう命がありました。しばらくお会いする機会もありません。煩わすことはないと存じます」
 オルカは驚いたように、体を跳ねさせた。
「な、何しにいくの?」
「戦です」
「……なんで?」
「兵士ですから」
 オルカが言葉を探すように戸惑いを見せた。
 これ以上の問答は無用に思え、テオバルトは静かに立ち上がった。それにわずかに身を引いたオルカに暇を告げれば、彼女は空気を食むよう唇を動かした。彼の目から顔を背け、いっそう強く裾を握りしめる。美しい生地に手の形をした皺が寄った。
「……オルカ、そんなこと、しないもん」
 テオバルトは息をつき、そのまま黙ってオルカの前から辞した。


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