前頁 / 目次 / 次頁

十  夕暮れの慈雨


 人いきれが激しい。あたりを渦巻く熱気と囁きと臭気がごった煮になって広場を覆いつくしている。広場の隅、あるいは向かう道では絨毯を広げ商人が商いをしていた。肉汁滴る出店はもちろん、書物、香料、絨毯、装飾品など様々だ。時には奴隷のやりとりもされることもある都一番の広場は、夕暮れ時にむけて刻一刻と活気をみなぎらせていた。
 本来であれば、家路に心移していくだろう刻限だが、どの顔も落ち着かなさげに周囲と言葉をかわし、そうして飽きずに礼拝堂の前に設えられた台に目を向ける。それはテオバルトの横に控えるラカンヌのものたちも同様だった。
 城に逗留する〈雨の御子〉が建国祭ぶりに姿を現す。その報せを受けただけで、このような活気となるものか。〈雨〉を人々がどれほど拠り所としているのか、テオバルトは考えられずにはいられなかった。
「いやはや盛況だあねえ」
 壮観、と言いたげに隣に立ったシハーブが口笛を吹いた。
「兵の徴募にゃ見えないねえ。おまつり? どう思う」
「別に」
「なんだご機嫌斜めだな」
 壁に背をあずけてシハーブが気安く笑う。テオバルトはそれを軽く睨みつけたが、すぐ広場に戻した。
「違う」
「なんだ、また面倒なこと考えてんじゃねえか」
「またとは何だ」
「おめーは暇だとすぐ悩むから。なに、また子猫でも拾った? そんで浸っちゃってる?」
 テオバルトは苦虫を噛潰したかのような顔をした。これがシハーブがただの戯言ならよかった。だが遠からず掠っていくものに心は荒立った。
「拾ってない」
「ああそう、そらーよかった。そろそろ動物を飼っていないお嬢さん方も少ないから、せいぜい自制してくれるとありがたいね」
 舌打ちをしかけ、やめた。テオバルトが小動物を拾い、シハーブ伝手で飼い主を見つけるのはいつもだ。深く吸いこんだため息を長く逃がし、わるい、と言えば、シハーブは驚いたようだった。
「やけに素直だな」
「悪いか」
「んにゃ? ただ勘ぐりたくなるねえ」
「……別に何もない」
 テオバルトは目を伏せた。そう、何もない。〈雪〉の話などするこなく日々を過ごし、ただ鍛錬をするかつてに戻っただけだった。それでも自身が背信をしているという思いは如実に強まる一方だった。王だけではない、〈雪〉を呼びこむならばそれこそ死地を共にした仲間をも危機に巻きこむ。理解をしているのに、言葉は喉の奥で凍えたままだ。
 だが、自分に何が出来るというのか。
 あの『フージャ』はいい。戻る場所がある。だが自分は最早行く場所も見当たらない。もし失敗、露見でもすれば王に殺されるであろう。その危険を負う理由はどこにもなかった。
 今のまま〈雨の御子〉でいれば、殺されることだけはあるまい。――〈雪〉との関連とて、証明されたわけではないのだから。
 何度も出た答えなのに、時間が経つほどに腹の底に重苦しいものが溜まっていく気がした。
 どうしてエルフの女は自分に告げたのか。今更ながらに腹立たしく思われた。王に告げることはあるまい、と女は確信していたようだ。舐められたものだ。
 だが実際に女の予想は的中している。
 それが、何よりも腹立たしい。
(一体俺は、何をしたい)
 王命を守りたいのか、自分の命を守りたいのか、仲間か、国か、それとも。
「やっぱ面倒くさいこと考えてるだろ」
 喉を鳴らすようにしてシハーブが笑った。テオバルトははっと身じろぎする。
「……お前には関係ない」
「そら結構。が、大方予想はつくね」
 テオバルトは横目だけで見た。猫の口に三日月めいた笑みがたゆたっている。
「止めとけ」
「何がだ」
「部屋の花は誰にもらった?」
「見たのか」
「ちょいと物を拝借した時にね」
 眉をひそめるテオバルトに、まそれは置いといてー、と追求をかわしたかつての兄貴分は、まじな話やめとけよ、と続けた。
「小動物といい、お前の悪い癖だ。何にでも想いを入れすぎんな」
「……だから、何のことだ」
「すっとぼけたところで変わんねえぞ。バレバレ。っていうか、元からお前のどストライクだもんなお姫様」
 腕を組んで、シハーブはくつくつと笑った。ひどく楽しげだ。
「やめとけやめとけ。気楽にいけよ。わざわざ不幸を買いにいこうとするな」
「――何をやめろと言ってる」
「んー? さあねえ。そこまでは。ただ今までのから言うと、お姫様を助けるべきか否か、っていう下りを悩んでいるんはないかと」
 そりゃ夢の見過ぎってやつだ、とうそぶく。騎士ごっこ。シハーブはそう揶揄して、おれたちはジノブットだろ、と続けた。乾きに喘ぐ大地で、悪辣なほど陽気な砂の民。あらゆるものを笑い飛ばして、砂を食んででも生き抜いていく。
「生きる算段をとれ」
 銅鑼が打ち鳴らされた。蒼穹に低く震える音を耳にしながら、テオバルトはシハーブの笑みを、やけに目ばかり真摯な顔を見て、小さくため息をついた。
「さっきも言った。お前には関係ない」
「あらまあ、そっけのないこと。つまらんねえ」
「――総員、配置に付け!」
 声を張り上げると、あたりにいた部下たちが決められた位置についていく。広場の端から順に、いつでも台に迎えるよう身を構える。これから現れる王のため、そうして〈雨の御子〉のために。
 銅鑼は余韻を追うよう、何度も打ち鳴らされた。次第に追い立てるよう間隔をせばめていき、蒼穹を駆け上がっていったかと思うと、ひときわ強く棒が叩きつけられた。見えない波が集まる人々の体を震わせ、広場の端々まで満ちあふれる。
 官吏が台の前で大音声を振るった。戦の経緯、そうして王がいかに人々の力を必要としているか。もっとも聴衆が身を乗り出したのは、現実的に支払われる対価の説明だった。命の値段と思えば、高いのか安いのか微妙だ。
(助けることを悩んでなどいない)
 だが、悩んでいることだけは認めざるを得なかった。
 繰り返される自問は、果たして何を解としたいのか。
 まるで牢屋への螺旋階段のように巡って落ちていく考えを、銅鑼が重たげに割った。目を向けると、官吏が深く息を吸うところだった。ひとつの楽器のよう、彼は喉を震わせた。告げるのは〈雨の御子〉の到来。
 広場の隅に控えられていた輿から、さっと布が引かれた。豪奢な輿のうちから、とりどりの服飾で彩った少女があらわれる。民衆がため息とも、逆に息をのんだようにも思える音とともに身を乗り出し前方の兵を押しやろうとしていた。
 宦官に手を引かれ、オルカが壇上へとあがる。裾がひどく長い。踏みつけて転んでしまいそうだとテオバルトはうっすら思った。
 緊張した面持ちで民衆にむかったオルカが、かつてのように唇を空回りさせた。
「お、オルカは!」
 出ないと言ったが、彼女は来たのだ。立ちはだかる現実に膝を屈し。妬心のある自分にそれはほの暗い喜びを与えるはずだった。だが内蔵のどこかが引き絞られるようにきりりとした。
「その、今回は、お願いがあってきました!」
 遠目にも、はっきりと少女の拳が強く握りしめられたのがわかった。
「戦、やめてください!」
 その場が凍りついたかのようだった。
 ひと時ののちに、詰めかけた人々があたりを見回し、囁き出す。どういうことだと隣へ隣へと交わされていく問いは雲行きの怪しさに戸惑いが色濃かった。
 テオバルトは息を詰めて、咄嗟に足を踏み出していた。無意識に王の居所を探る。
 広場の端に設えられた天幕にて王は出番を待っているはずだった。その奥は暗がりに溶けこみ見通せない。冷や汗が吹き出してくる。
 王はこれを一体どう見ているのか。
「オルカは、そういうのってよくわからないけれど、でもすごく大変だって知ってるよ? なんでするの? 痛いのやだよ」
 十を越えるほどの少女が口にするにはあまりにも幼い発言だった。少女が〈雨の御子〉でなければ一笑に付されただろう。
 テオバルトとて好き好んで戦をするわけではない。生きるための『仕事』だからだ。エルフを尋問することも、オルカの願いを踏みつぶそうとするのも。
 ――自分を曲げねばいけないことなど、山ほどもある。
 ざわめきの中、雨滴のようにふとオルカの声が落ちてきた。
「目つきの悪いお兄さんも、猫のお兄さんも」
 テオバルトは思わずシハーブを見た。彼は軽く目を見張り、目を瞬かせていた。オルカの声は続いていく。次々と連ねられていくのは城仕えのものたちの、一人一人の特徴だった。これまでの日々に彼女が関わったであろう人々のこと。
 それから。それから。それから。それから。いつしかあげきれなくなったのか、オルカは息を切らして、鼻をすすり上げる。こらえ切れなかったように、声が揺れた。
「みんな、傷ついたらやだよ……」
 声が溶け入るように消えていく。
 誰も継ぐ言葉が見当たらないよう静寂が訪れた。風だけが、一陣通り過ぎていった。
 そのとき、天幕が揺れた。弾かれたようにテオバルトが目を向ければ、王が天幕から姿を現したところだった。
 ――危険だ。
 テオバルトの背筋を冷えたものが走った。その目の前で王がゆったりと壇上にあがり、オルカに近づいていく。獣が獲物を狙ったときににじり寄っていく様に似ていた。
 テオバルトは無意識のうちに前に出た。
 王がゆるりと腰に手を当てた。待ってくれ。叫びが迸りそうになる。
「……さすがは慈悲の神の御子」
 王はうそぶいた。
「とても身につまされる話です」
 どこもかしこも民衆に溢れていた。前に近づくにはかき分けていくしかない。惚けたような人々を押しやり、波をかき分けるように進もうとするが上手く進めない。なんだと服を引っ張られるのを強引に振り払い、嫌がる女をよけて、邪魔だという老人を越えていく。
 だが、ふたりはあまりに遠かった。
「聞いたか皆の者。〈雨の御子〉は我々の誰もを案じておられる。さすがは慈悲の神の寵児だ」
 王は悠然と笑って、オルカの肩に手を置き引き寄せた。身じろぎするオルカの仕草を気にもせず声を続ける。
「〈雨の御子〉の言う通り、確かに戦には痛みは伴う。これまでの歴史を振り返ってみてもそうであろう。だが戦をせねばどうなるか。それもまた誰の目にも明らかであろう。このたびはオアシスの要請を受けてだが、エルテノーデンはそのオアシス以外に狙っているものがある。それがこの〈雨の御子〉だ!」
 人々がどよめき、オルカが弾かれるように顔をあげた。
「何のために戦うのか? 痛みの対価を何とするのか? ――お前たちは見たであろう、あの奇跡を。〈雨〉を引き連れる彼女の姿を。そうして聞いたであろう。〈雨〉のごとき慈悲の言葉を!」
 すう、と大きく王が息を吸いこんだ。
「奪われて良いのか!!」
 空気が震える。魅入られたように人々はジノブットの王を、〈雨の御子〉を見上げていた。
「我々は攻め入るのでない。守りにいくのだ。オアシスを、そうして我々の〈雨の御子〉を」
 オルカは首を振った。小さな動きだった。
「我らはジノブット! 安寧を約束された民! その旗印を奪われてよいのか!!」
 王の大音声は人々の迷いを打ち砕くかのように響き渡った。
 静まり返る広場に、小さく少年の声があがった。そうだ、という声は輪唱のように次々と被さり、波紋のように広がっていく。そうして建国祭のときのようなうねりを持った音の津波へと変貌した。
 そうだ、〈雨の御子〉のために剣をとれ!!
 襲い来るような音にオルカは勢いよく首を振った。何かを叫ぶが、人々の歓声の前にあまりにもそれは脆い。オルカが王にすがりつく。だが王は泰然として揺るがなかった。
 歓声が耳の傍で轟くのを聞きながら、テオバルトは虚脱するような思いを抱えていた。
 やっぱりだ。王に敵う術などない。王に逆らって死なぬだけ、オルカはましなのだろう。
 ――生きるためには、やはりこれが正しいのだ。
 そのときだった。
 オルカが弾かれるように王の身体から離れた。王が眉をひそめ手を押さえている。
(噛まれたのか?)
 オルカはぐいと目を拭った。そして勢いよく壇上から飛び降りると、一番前の観客にすがりつこうとした。兵士がそれを止めるが、身をひねって必死に何事かを叫ぶ。異様な様子に気づいて熱気の渦となっていた聴衆は、水をさされたように次第に静まり返っていく。
 すると、少女の声がよく通った。
「オルカ、オルカ、そんなのやだ! だったらオルカがエルテノーデンの王様とお話しするから! オルカが止めてって言うから、だからやだ! やだ!!」
 悲鳴のようにオルカの声が響いた。
 王に指示を受けたのであろう兵士がオルカを囲んだ。ざわめく聴衆を圧するよう人々の目から覆い隠し、〈雨の御子〉はお疲れです! と口々に叫ぶ。その合間にも、オルカ絶対やだ! というくぐもった声が聞こえてくるのだった。
 その騒ぎに広場は騒然となった。主役の欠いた舞台は偉丈夫の王がいても、あまりにも広く閑散としていた。
 王が煽動していたはずの熱気はいつの間にか霧散していた。
 残ったのは少女の叫びだけだった。
 そのとき、テオバルトの頬を温い雫が濡らした。驚いて顔をあげると、光を纏った雲が空を覆っている。ぽつり、ぽつりと涙のように降りゆく雫が、顎をあげる民衆の砂埃にまみれた体を柔らかく洗っていく。
 テオバルトは空に手のひらを差し出した。
 律動的に〈雨〉は肌を叩いた。手のひらのくぼみにたまった雫は、つと溢れて伝った先の肘から玉となって地面に落ちていく。
 そうして乾いた地面を慈しむよう潤した。


前頁 / 目次 / 次頁


Copyright © 2013 All rights reserved.
inserted by FC2 system